戸惑い、砂金、不協和音
最初に「では、やってみましょう」と言ってから、あとは言われるがままにやってきた。ものすごく受動的な表現だけど、それが率直な感覚。
わたし達に奏でられるのは、不協和音だけ。わかっていたのはそれだけだった。
この共創プロジェクトを始めてから3カ月が経過した。
当初、自分自身について書くことへの戸惑いは大きかった。晒すような感覚が怖かったし、そもそも自分の内に書くべきモチーフを見つける難しさを感じていた。
それは今もあまり変わらない。
自分の感覚や視界、見えている世界を発信することに何の価値があるのかわからないままだ。
だけど、変化した点があるとしたら、価値ありきで物事を判断するのをやめてみる、と思えるようになったことだろうか。
わたしは仕事でも生活でもいつも意味を、価値を問いかけている。理由を明確に捉えたいと思っている。
それはわたしの価値観であって、全否定する気はないけれど、意味を問わずとも許されるものが存在するんだと思えるようになってきた。
それと、わたしは興味や関心という感覚が薄い。趣味らしい趣味もないし、新しいものや変化は基本的に好きじゃない。
好奇心の権化みたいな山本さんとは真逆。彼は本当に真逆で、共感が全然ない。
全然、理解できない。
理解できないものは拒絶しやすいが、度を超えるとおもしろく見えてくるという事実は発見だった。理解できないがゆえに理解しようとする逆説的なプロセスが、ごく自然な感覚で価値観に広がりを持たせてくれるとしたら、それは悪くないことだとわたしは思う。
そして、エッセイや日頃のやり取りを通して垣間見えるところどころに、砂金のようにささやかな共通項が見つかる楽しさがあったりもする。
とりあえず3カ月継続してみる、というのは当初の目的だった。
それが果たされたここから先、継続は目的からはずれたと思っている。
いつまで続けられるかわからないし、そう思いながら続けていくことを互いに許容するなんて、矛盾してるような気がする。
でも、不協和音なんだから、仕方がない。
調和せず不安定なままの和音を鳴らす余地がある限りは、価値を求めないで聴き続けてみようと思う。
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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください
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