共感の話

記事を介してのやり取りは趣き深い。捕まるのを楽しむ鬼ごっこをしている気分。
「面影」の往復書簡、消印は、共感。

わたしも、姉や兄と顔が全然ちがう。
兄とわたしは父の系譜らしいが、類似する要素は多くない。
yamamotoさんの場合は弟さんと妹さんだから、まだ成長のプロセスなんじゃないかと思ったりもしたけれど。

父親の面影を見ることはたくさんあるし、それが良い反面教師になっていることもある。父と性格が似てる部分もあり、父とは違う部分もある。血の繋がりという表現はいいのかわからないが、同族であるということには変わりない。

かつて、わたしは父を「合理主義の過ぎる、ものすごく短気で怖い人」と思って見ていた。
それが今や、そのまま自分に投影されている。むしろ父は年齢を重ね、一般的な意味で“まるくなってきた”ようだ。
特に子どもと接している時、かつての父の思考や行動を、理解の枠を超えて感じ取れることがあって少し怖い。
血縁、同族という単語を都合よく使ってしまうなら、DNAのレベルで共感する感覚。
それが良いか悪いかは、わからない。

面影には2種類あると思う。自分以外の誰かの面影と自分の面影の2つだ。私は父の面影を自分に見るし、昔の自分の面影もきっとある。昔持っていたようなキラキラした輝きや可能性の面影が、今も自分のどこかにきっとあると思う。私は、自分と別の誰かの面影の先に生きているのだ。

最初の記事を書いた時には、この発想はなかった。
でも確かにそうだ。
次元の異なる要素だが、面影には「過去」と「他者」が共存している。
本質的に、「重ねる」という動詞と親和性が高いのかもしれない。
なんにもないところに、面影は見えない。
過去の自分が今の自分に、あるいは、血縁者などの誰かが誰かに、重なって浮かび上がるのが、面影。
時間を重ねたり、誰かを重ねたりしながら、少しずつ変化していくものなのだろうと思った。

私は、自分と別の誰かの面影の先に生きているのだ。

この一文は、とても好きだ。
たとえ一続きじゃなくても、いつもそばに寄り添い見えるものじゃなくても、何が今の自分を形成しているのか、思い出させてくれる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?