透明なライターの悩み事

ライターのわたしは文章とか言葉と仲良しのはずなんだけど、noteの記事を書くのは本当にむずかしい。むずかしさの理由は表現以前の問題で、自分を凝視したり問いかけたりする作業が必要だからだ、と認識している。

ライターは誰かの考えや定量的な情報をわかりやすく伝えるための“器”みたいな存在だと思っていて、ある種のガラス、翻訳機みたいでもある。
思考や情報を一旦受け止めること(器)、そのうえで可視光線にしてから透過させること(ガラス)、わかりやすい言葉に変換すること(翻訳機)をする仕事。

その操作の匙加減にはライターとしての個性や資質が必要になるものの、本質的には空っぽないしペラッペラであるのが望ましいと、わたしは考えている。だって、一旦受け止めるとしても必ずアウトプットしなければいけないから。この場合、透過や翻訳の阻害要因になりうるのは、情報を必要以上に屈折させてしまうライター個人の意識、そして自我の厚みだと思う。もちろんスキルも関係するけど。
よりスピーディに、純度高く、でも正確かつ適切に思考や情報を透過させるには、できる限り自分自身が薄い方が望ましい。そう思って、今までライターをやってきた。

でも、自分の思考や感情を発信しようとすると、不都合が生じる。凝視しようにも問いかけようにも、自分の存在を見つけられない。どこまでいっても透明であろうとする自分の姿を、自分がいちばん捉えられない。だから、わたしは自力でnoteの記事を書けると、奇跡寄りの幸運を感じる。

一番わかりやすいのは、誰かあるいは何かを鏡にして、自分を映し出すことだ。反射させれば見える。厳密には客体になっちゃってるが、一応自分の姿を見つけられる。

「内省」という言葉、もちろん意味も知っている。でもライターのわたしにとっては最も苦手なものかもしれない。

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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください

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