そこにあるのは夜の結末
早朝は不思議な時間だと思う。
端的に言うと「空気が澄んでいる」。曖昧な感覚のうえに、それ以上もそれ以下もないけれど。
もちろん、緑の多い公園や大きな川の土手で過ごすのも良いのだが、わたしは朝の7時台の渋谷を歩くのが非常に好き。
いつもなら人がいっぱいいるのに、朝は少ない。密度の低さも、澄んでいると感じる要因にちがいない。
ビルの前には、夜のぬけがらとして積まれたゴミ袋。年季の入った人が年季の入った道具で、清掃している様子を見ることも多い。飲食店やアパレルばかりの雑居ビルに思いがけず個人宅や歯科があること、何気なく歩道に置かれたプランターに紫のパンジーが咲いていることに気づいたりする。昼でも夜でも絶対にそこにあるはずなのに、朝でなければ目につかない。
今は、出社する場合は渋谷駅から原宿の方に向かってキャットストリートを歩く。
前職では、銀座を歩いて通勤していた時期もあった。
渋谷と銀座は立地も趣きも全然ちがうけれど、「昼と夜は人が多い」という点が共通していて、わたしの感覚では朝の雰囲気も似ている。
朝は空気の動きが遅く、一仕事終えた感があり、疲れているのに清々しい感じがするのだ。経済が動いている時の活気、集う人たちの間にあふれかえる思惑、それらに伴い生み出される騒音などがすべて落ち着き沈殿する。時間が経って静止したスノードームのように。
ビルばっかりの街並みだが、空なんか見上げようものなら、びっくりするほど澄んで明るい。春霞の今はそれほどでもないが、関東の冬はパリッパリに乾いているので、いよいよくっきりと青空が美しかった。
朝はいろんなものが鮮明に映る。端々に残る前夜の気配と混じって、今日は昨日からの地続きなんだと思い出す。朝は夜の結末としてやってくるのだということも。
朝の7時台の渋谷。静かで澄んだ街を歩きながら、一日をはじめるのも悪くない。
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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください
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