我々は、ちょっと言葉を過信してるのかも
山本さんもわたしも、言葉への信頼が厚いように思う。わかりあいを深めるために最適な手段というかツールだから、には違いないけれど。
薄々 kuroda も気づいていると思うが、私と kuroda は考え方がほとんど真逆。
これはもう、火を見るよりも明らか。
時々アクシデントのように共感ポイントが見つかったりするけれど、基本的にはほとんど何も合わない。
確かにそもそもの属性がわりと大幅に異なるとはいえ、別にドラえもんと清少納言ほど種族や時代がかけ離れているわけでもないのだから、この合わなさは本質的な合わなさ、と言っていいのだと思う。
単に価値観やイズムの違いであって、私と kuroda の間に、このギャップを埋める動機も、ギャップに橋を渡す理由も特にない。私たちはただ、「ギャップがここにあるよね」ということだけを共有し、「あなたと私は違うんだから、そういうギャップもあってもいいよね」ということを認めることだけをしている。
「ギャップがあるねー」と互いに認識し、ギャップの大きさが大きすぎておもしろくなってる状態が、たぶん適切な描写。
彼が書いている通り、そのギャップには「埋める動機」も「橋を渡す理由」もない。ギャップは存在を認識すると輪郭を持って可視化されるけれど、可視化されたからって、ぽん、ぽん、ぽんと、ただその辺に増えていくだけのことだ。
ギャップが多すぎて連なって、それ自体が橋になっちゃう可能性はあるけれど、お互いが橋にニーズを持っていない以上、此岸と彼岸がつながったところで、どうということは何もない。
私が考えるわかりあうは、共感では全くない。認識・理解・リスペクトの話である。
これは確かに、理解がむずかしそう。「わかるよ(あなたの気持ち)」「(私の気持ちを)わかってほしい」という文脈、つまり気持ちの共感とセットで使われる用法が多いのが、その理由じゃないかと思う。
我々は、認識・理解・リスペクトを表現するために言葉を使い、そして言葉の説明能力を深く信頼しているけれど、感情や心情はそこまで信頼も重視もしていないのかもしれない。言葉よりもっと不確かで、移ろいやすく、可視化しにくいから。
わたしに関してはとにかく感情的なものに鈍くて、苦手。自分の気持ちも相手の気持ちもうまく汲めないから、目に見えて説明できる言葉の方を信頼している。この点の理解においても、わたしと山本さんの間にはギャップがあるはず。
自分の大切にしているものを言語にしてくれることで、私は kuroda の価値観をよりよく理解できる。納得できるかはわからないが、確実に一歩理解は進む。これが何よりも大切である。
「わかりあう」と同様に「理解が進む」も、距離的に歩み寄ってる感のある表現に見えてやや齟齬を生みそうな気がするんだけど、山本さんはどう思うんだろう。
わたしは、今後もっとわかりあいが深まり理解が進んだとしても、それが距離感の近しさを生むことはないんじゃないかと思っている。たとえギャップに埋もれて窒息死しかけても、それが関係性の距離感を縮めたり伸ばしたりはしないのが、強いて挙げるなら我々の特徴なんじゃないか、と。
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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください
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