ライターの良い失敗と良くない失敗
「失敗」の定義もむずかしい話だけどね。
たとえば、同じ原稿を7回書き直して提出したことがある。
電話口で2時間半、口頭でダメ出しされたこともあれば、余白に「は?意味不明」とだけ書かれた修正戻し原稿を見て、途方に暮れたこともあった。
どれもずいぶん昔の話だが、これらはある種の失敗談になるのだろうか。
個人的に、ライティングスキルの低さによる失敗は、ポジティブなものだと考えている。経験として次につなげられるし、そもそも人が書いて人が読むものである以上、初回取引の一発目から満足度が100点の精度を出すのは難しいと思っているから。
もちろん、わたしは仕事を請ける時点で100点以下を出すつもりはない。それに、原稿を書く以外でも100点に近づける方法は多い(とにかく早く仕上げるとか、複数案をつくるとか、変化球を提案するとか)
でも、コミュニケーションに起因する失敗は許せない。それは、スキルでも経験でもなく、自分の行動の問題でしかないと思うから。執筆以外の部分でもっとできることがあったと感じるほど、後悔は深くなる。反省の先に改善や成功へのヒントはあるが、何より重く残るのは後悔だ。これは、良くない失敗だと思っている。
かつて、本当に相性の合わない人がいた。
関係性自体は良好で、コミュニケーションも密に取れていて、それでもどうしても執筆の相性が合わない。
わたしは企業クライアントの仕事をしているので、その人が書いた対外向けの文章は可能な限りすべて読んで文体を探り、メールの本文さえもあまさず読んで、好きな単語や言い回しをインプットした。インタビュー後に口頭で、その後にプロットでコンセンサスを取ってさえも、完成した原稿にご満足いただけなかった。
最終的にわたしは担当をはずされたが、率直に言ってほっとした。
でき得ることは全部やってみたけど、どうしても合わせられないのだと思えたからだ。言葉を選び、構築するためのプロセス、センス、何もかも合わない。これ以上そこに調整を加えると、わたしが執筆する意味がないと思っていたから。
その意味で、この案件はわたしのキャリアで最大級の失敗のひとつだが、だけど後悔はない(嫌な思い出なだけ)
おそらく、失敗の種類は、やりきったと自分を認められるかどうかにかかっているのだと思う。わたしは失敗にも、量より質を求めているのかもしれない。
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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください
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