靴下が「洗濯物」になって、また靴下に戻るまで
帰宅して、脱いだ靴下を見ると明らかに疲弊している。たとえ人間がそれほど疲れていなくても、靴下は疲れている。
アウターはそれほどでもない(要するに、生地の厚みの問題?)
脱いだ靴下はもはや「洗濯物」にしか見えない。“洗濯物!”というタグをバチーンと貼り付けてあるかのように。
そんなタグのついた衣類は洗濯する。洗濯が終わっても、衣類はまだなお「洗濯物」だ。わたしはいつも「洗濯物を干す」と言っているから。
干している間も、それぞれの衣類は総体としての「洗濯物」に見える。
「外に洗濯物干すと、花粉がついてしんどいな」と言うし。
取り込んだところで、まだ「洗濯物」のままだ。この期に及んでなお、わたしは「あ、早よ洗濯物たたまなあかん」と言っている。
「洗濯物」は、クローゼットに掛けたり、たたんであるべき場所に戻したりすると、そのタグがはずされる。洗って干して、かたづけて収納場所に戻した靴下は、もう疲れていない。
不思議。
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この作品は、共創プロジェクト『不協和音』の作品です。このプロジェクトでは、エッセイを通してお互いの価値観や発見を共有し、認め合う活動をしています。プロジェクトについて興味を持ってくださった方は、以下の記事も合わせてご覧ください
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