女であるという事実

 一応、女である。女として生まれ、今日まで生きて来た。女であることを楽しみ、女で良かったと思っている。恐らくこれからも、女として生きて行くだろう。生を終えるまで…いや、その後も、私という人間は女のままだ。
 前世や来世が存在するか否か、確かめる術を知らないのでわからないが、来世があるなら、また女でありたいと思う。
 女同士の姦しいお喋り、多種多様な化粧やファッション、歌や踊りが好きだと言えば、違和感を持たれる以前に、好感度が上がるという現実…。ウェディングドレスに憧れたり、子どもを産んだりしていなくても、私は女であることを私なりに謳歌していると、薄っぺらい胸を張っている。
 思春期には、自分が女であり、女扱いされることに反発を覚えたりした。男尊女卑の色濃い時代ほどではないにしろ、女であることで男と比べられ、差別を受けることが少なくなかったせいだ。当時の私には、女であることで得をした記憶がまるで無い。むしろ、「女なのに…」「女なのだから…」と、女であることによって求められる社会的なニーズに沿えず、それに反するような生き方しか出来ない自分を嘆くどころか、沿えない私にそれらを求める社会自体を嫌悪した。
 世渡り下手は性質なので、年を取った今でも治らないが、世間に揉まれて少しは成長していると思う。
「笑ったら可愛いのに…」「もっと愛想良く…」
 言われる度に益々不機嫌になった時期をとうに越して、今はまるで言われなくなったことを思えば、社会における女の役割を無視する頑固さは、多少、緩んだのかも知れない。
 相変わらず男女の比について、思うところは多々ある。自分が女で得をしたと思えるのは、レディースデーに割安で映画鑑賞出来た時ぐらいか…。しかし若い頃ほど、不本意な差別に憤ることは減った気がしている。
「女なのだから…」と言われることも随分減った。
 男女雇用機会均等法などの社会的な風潮や、性別を理由にした差別に対し、世間全体の目が厳しくなっているせいかも知れないが、女であることを楽しむ余裕が出来た事実は、今此処に存在している。案外年を取ったせいで、男女の区別を明確な理由として提示されるほど、女扱いされなくなったせいなのかも知れないが…。
 基本的に、女でいることは楽しく、私を元気にさせる物事に満ちているが、たったひとつ、どうしても耐えられないことがある。それは、女が群れになることで生じる陰湿さの餌食になることだ。唯でさえ群行動が苦手なのに、女達が集い、大なり小なりそれが〝組織〟や〝チーム〟として成立した時、私は女達の世界から逃げ出したくなる。時には、はみ出してしまうのだ。
 場所によっては、異性が入るより、女だけの方がサバサバしていることもある。しかしそれは精々、当たりが良かった時ぐらいの話だ。結局、女の根本には〝大奥〟のような様々な思惑が渦を巻く、特異な世界が象徴的に存在している。それが私は大分苦手なのである。
 女が女らしい陰湿さで群れを成した時、私はそこから逃げ出したくなる。人生の殆どを、女性社会で生きて来たくせに、その場所に慣れるどころか、日に日に嫌悪するようになったのは、そもそもそういった場所が性格的に不向きであったと気付いたせいだ。当然のようにその場で生活していながら、その事実に気付かずに生きていた。むしろ女ばかりの世界にいる方が、楽だと信じていたのは何故なのだろうと、今は不思議に思う。しんどいしんどいと思いながら、けれどそこから抜け出そうとしなかったのは、しんどさの原因が〝女ばかり〟という事実とは別のところにあると思っていたからだ。
 気付いたのは、女中心社会であった職場に、僅かな男が参入したことがきっかけだった。彼らは凡そ、男の印象からは程遠い男たちであった。ある者は仕事が出来ず、ある者は自分本位で、そしてある者は女以上に女性的であるという、かなり異色の面々であったのだが、そんな彼らが居ることで、私には、職場の空気が随分違って見えた。
 女達は彼らを侮蔑し、陰口を叩いたが、私は違った目を向けていた。確かに、仕事もせずに給料を得、自分の話しかせず、人としてどうなのかと心配になるくらい理解出来ない特性が目立って嫌悪さえしたが、彼らは一様にして、私にとって特別障害とはならなかった。侮蔑しながらも関わりを持とうとする面々と違って、私は見て見ぬフリを決め込んだ。関り合おうとするから苛つくのである。苛つく労力を使うぐらいなら、他のことに目を向ける。そうすれば不本意に振り回されることはない。チームプレイであるならいざ知らず、関わらなくても回すことの出来る職種違いの関係であった為、お互いに障りなく努めようと思えば出来ることであった。
 しかし群れたがる人間というのは、孤立している者が気になって仕方がない。〝協調性〟などという聞こえの良い言葉を使って、個人主義を貫こうとする人間に関わろうとする。その必要について、私は何度も頭を擡げる経験をしたが、人間関係全般に於いて〝協調性〟を主張する人達というのは、それを最優先事項として信じているし、外れるものが居ようものなら、ある種の攻撃性を持ってそれを非難すると共に、自らの方針を強要し、従わせようする。私が苦手とするのは実はそこで、やるべきことをやっていても、自己の自由を最も尊重する姿勢を貫けない集団行動というものを、心から息苦しいと感じるのであった。
 正しいと思うことを正しいと言えない、非難される内容について意図する事柄が、自身の信じる道と異なる…。
〝連れション〟的な関係を求める多くの女達を目にし、それに沿えず、又、沿おうとさえ思わない時、私は〝協調性〟が欠如していると捉えられ、あからさまであったり、冷戦的であったりする数々の攻撃を受ける。私はそこから逃避したくなるのだ。
 よく、「女の腐ったような…」といった言葉を用いて、一部の男性を非難する場合があるが、ならば女は、腐る前からある意味異臭を放っているということなのだろうかと思ったりする。腐ったような男に対し、腐る前から腐りそうな人間性を模している…それが女であり、そういった女達が、私のような女にとって、女という種類からの逃避を促すのである。
 私は女であることを喜び、楽しんでいるが、それは精神世界とは別物だ。
 私は女としてごく単純に生きたい種類の女であり、面倒なのは真っ平御免なのである。


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