お地蔵さんにお願い ①
家から少し離れた散歩通りには【北向き地蔵】が居て、昔から静かに手を合わせている人を何人も見かける。東西南北に疎い私は、それが“北向き”で、【北向き地蔵】が一願本尊としてご利益があるという話を、母から聞くまで知らなかった。数年前のことだ。そこに居られるお地蔵さまは、お堂の中も綺麗でお供え物も絶えない。地域や人々に守られている証拠だと思った。
私が暮らす住宅の公園にもお地蔵さまが居る。しかしこの何年も、誰からも世話をされず、放置されたままだ。昔は住民によって輪番制でお世話されており、毎年地蔵盆も開催されていた。それがなくなったのには幾つか理由があるようだが、主に聞いた話によると、お世話し続けることを負担に感じる住民が増えたこと、住宅内に子どもが減り、子供会が解散して盆祭り自体が途絶えたことなどが挙げられる。また、このお地蔵様自体が、市によって認められたものではなく、不法に建立されたものであることも理由のひとつとされているようであった。
この住宅が出来た当初、公園で子どもが、度々大きな怪我をしたらしい。そこで地元の花屋さんがお地蔵様を寄贈したところ、怪我がぴたりとなくなったのだとか…。以来、その場所で大切に祀られて来たが、市町村合併を機に、認可されていないお地蔵様を撤去する動きなどもあったという。しかし未だ撤去されず、その場にお地蔵様は居られる。何故撤去されなかったのか、詳しい話は分からないが、恐らく住民からの反対などもあったのではないかと想像する。
しかし現在、お地蔵様は、地域住民にすらお世話されず、完全に放置された状態だ。あまりに気の毒で、何とかできないかと、近隣のお寺などに相談も試みたが、こちらが言葉にもしていない“永代供養”という、飛躍した回答が返って来たため、知恵を借りることは諦めた。以後、月に一回程度ではあるが、掃除し、水とお供え物を取り替え、線香を手向ける…ということをこっそり行っている。
徒歩50メートルという距離なのだから、毎日でも出来ないことはないほど、細やかなお世話だが、仕事をしていようがいまいが、家で四六時中ごろごろと寝ているわけではないので、自身に無理を課すことは得策ではないと考えた。信心深いわけでもないし、自分一人がこのお地蔵様を何とかしなければならないという、強い使命感に駆られているのでもない。唯、“放置されっぱなしが気の毒だ”という、恐らく地域住民の何人かは確実に、心の片隅に感じたことがあるような気持ちを、自分に出来る甘い範囲で行動に移したに過ぎない。依って、月に一度でもお世話をしているから、私の悩みを何とかしてくださいなどと、大それた願をかけているわけでもない。
唯、毎回、線香を手向けて手を合わせる度、ついつい願い事をしそうになる。
初詣などで社寺仏閣を参る際、そもそも神仏に、願いを掛けるのは違うという話をよく耳にする。加護を得た一年の報告と、感謝の気持ちを伝えることが、正しい参り方なのだと…。
しかし、鈴を鳴らし、お賽銭を投げ入れた時点で、お賽銭と引き換えに願いを叶えてもらおうと、自身の思いを掛ける人の方が多いのではなかろうか?それで願いが叶ったことが、私にも一度くらいはあったから、参拝の目的とは、そのようなものになっていると感じる。相手が神様でなく、仏様であっても一緒で、お賽銭を投げ入れなくても、先祖の墓参りすら似たような形に収まっているように、昨今は感じている。出来るだけ“報告”に留めようと努力はするのに、ついつい力添えを願ってしまうのは、自らに自分の力だけでは解決できないような悩みが多すぎるせいか、はたまた強欲であるせいか、その両方であるからかも知れぬ。
間違った参拝をしている。そう感じる度、後ろめたくなる。しかし今回、約一ヶ月ぶりにお地蔵様に手を合わせて、何やら急に開き直ってしまった。願…掛けて何が悪いのか?と…。