研修制度について

 研修に行った。
 研修は好きじゃない。嫌いだと書かないのは、何でもかんでも、嫌いだといつもハッキリと書き過ぎていると、自らを振り返って反省したせいだ。だがやっぱり嫌いなものは嫌いなので、反省を撤回しよう。
 何が嫌なのかと言えば、専門性を追究することによる窮屈さが嫌なのである。保育士の時の研修も、司書の研修である今回も、真剣な眼差しで講演者の言葉にうんうんと頷く聴衆の空気を感じると、息が苦しくなる。上の空で落書きに勤しんでいる自分が後ろめたいせいか…。
 自分の好きなテーマや、向上させたい分野に関するものなら、私も同じ態度で臨めるのかも知れない。いや、しかし…自分の好きなことでもわざわざ〝研修〟なんぞに赴くだろうか。
 私には、物事を追究するのに集団行動が必要な理由が、あまりよくわからない。群集行動が苦手なので、サークルやグループ活動も、基本的に避けたい人間だ。勉強したい意向があるのなら、一人で黙々と調査研究するのが性に合っている。
 多くが集って、ある一定の考えや知識に集中するのはしんどい。
 元来、机上の知識より、直感と自主経験を優先する種類の現場主義である。【百聞は一見にしかず】と常に思っているのは、人の口から伝えられたことに自ら対面した時の感覚が、他と必ずしも同じでないと感じているせいだ。依って、講演者が全く現場を知らず、研究や調査などを通じて専門知識を開拓して来た人々だったりすると、信頼を寄せることは難しくなる。
 それに、身を持って成長向上したことは自信になっても、知識の専門性に関する説得力を、自らのスキルで体現することが苦手だという自覚もある。難しい言葉や、実用に結びつきそうもない情報を移植されていると、自分がその道のプロフェッショナルになることから逃げ出したくなる。まるで狭い世界に押し込まれていくような気がして、『そんなことまで知りたくないし、知っても役に立たない。少なくとも私にとっては…』などと考えてしまう。
 かつて研修報告というものを提出した際、突き返されて書き直しを命じられたことがあった。講演者の意見に対し、批判的過ぎるというのがその理由だったのだが、私には私の考え方や意見というものがあって、講演者とはそれらが違った…というだけのつもりであった。しかし、報告書を確認した上司には〝反逆〟と映ったようだ。
「折角偉い人が講演に来て下さっているのだから、その意見を肯定的に捉えて気持ち良く思ってもらえるように書くのが礼儀」というのが上司の言い分だったのだが、人格形成の過程や思考の違いは人それぞれなのに、相手の顔色を窺いながら報告書を作成しなければならない理由に納得がいかなかった。最終的に、この研修報告は参加したそれに対する〝感想〟のようなもので、あらゆる上役の〝審査〟を経た後、講演者の手に渡るようになっていたと知る。その時点で何かおかしくないか?と思った。
 そもそも研修というものに、自主的に参加するという機会は少ない。勿論、積極的にあらゆるそれに参加する、向上心旺盛で奇特な人々もいるだろう。しかし私の知る限り、大半は〝指示〟からであったり、〝義務〟からであったりする。そういった過程を踏まえ、〝指示〟や〝義務〟を与えた者が言う〝偉い人〟の〝ありがたいお話〟を聞いて、たとえ共感出来なくても、『あー、そういう考え方もあるのね』という程度に留めておけば害も無いのだろうが、そこで黙っておけないのが私という人間なので、最終的に自分で自分の首を絞めることになるのであろう。
 その確固たる理由というのが、〝研修〟的なものが、前に立つ人を見本としたその思考や専門知識がいかに正しくいかに良いものか、大多数に提示するという形式にあるせいだ。そこには知識や思考の源泉を、自ら選択する自由というものが無い。講演者は〝先生〟であり、尊敬されるべき存在として、人々の前に君臨する。ピラミッドの頂点の講演者を、その一段下の主催者が崇め奉り、一番下の聴衆がそれを支えるという図式が出来上がる。考えただけでも大分ウザい。
 聴衆には、主催者の腰巾着のような人もいれば、私のようにウザいと思っている人もいる。私のように露骨過ぎるのは特異かも知れないが、終わった後にぼそぼそと反対意見を呟いている人が意外と多いのを見ていると、〝先生〟も大変だな…などと気の毒に思ったりする。講演後に主催者が、聴衆に向かって質問を呼び掛ける時、殆ど手が上がらないのを見ていると特にだ。
それぞれの心根をいちいち推し量る力量は無いが、群衆の中で孤立し、鬱々としながらしみじみと感じる。
『人々は向上するのが好きなんだな…』
 研修は一種、新興宗教的だ。
「専門家による素晴らしい知識を、皆で共有しましょう!」という空気感が、壺の押し売りをされても拒めない感じに似ている気がするのだ。
 皆一緒に向上するというのは無理がある…と私は感じている。
 誰もが同じ方向を向いているというのは、結束が固いことを意味するのかも知れないが、そうなるには協調性と信頼関係、そして同じことを良いと思える正しさへの基盤が必要だ。
 しかしその三つが揃うのは、そう簡単ではない。様々な相違を抱えた人間が寄せ集まっているのである。講演者は祭り上げられた身として、ある意味自分の仕事を熟しているに過ぎないのであろうが、主催者はその辺りのことをどれだけ理解しているのだろう。首を傾げたくなるのは、やはり自分に協調性や群衆力が欠如しているせいかも知れない。
 私は自分が、時々「裸の王様」に出てくる子どものようだと感じる。違っているのは、私が子どもではなくいい大人で、最終的に潰される立場になる点だ。真っ向から刃向うことが、結局自分を更に面倒臭い場所へと誘うという事実に気付いたが為に、私は子どもの無邪気ささえ何処かへやってしまったが、やたらとテンション高く、面白くも無いのにやたらと激しく一人笑いをしながら、自信満々な自慢話を延々続けている講演者を前に、私は今、これを書いている。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?