ありとあらゆる境目に
新年度が始まって、毎年何人かがやって来る。100%女の子で、100%高学年だ。
「友達が出来ない。」
「誰と仲良くしたら良いのかわからない。」
今年やって来た子たちは、ストレートだった。
学校の規模が大きいと、毎年クラス替えが行われる。クラス数が多ければ多いほど、小学校6年間で、一度も話したことがないとか、同じクラスにさえなったことがない…などという話もよく聞く。
自身が小規模校の出身で、クラスも6年間ずっと2クラスだったため、同じクラスになったからといって、話したことのない子はいたが、同じクラスにさえなったことがない子というのは、記憶にある限り一人だけだった。なので、「どんな子か知らん」というほど遠い存在ではなかった気がするのだが、この大きな学校では、それも普通のことである様子。担任ほど詳しくはなくても、一応全校生徒の顔と名前くらいは把握している立場としては、ちょっと驚くべき事実でもあるのだった。
高学年女子がクラスに馴染みにくいさを感じるのは、自分にも経験があるから解る。〝女の子〟は〝女〟になっていくと、色々とややこしい。
クラスの友達関係で苦労を背負いやすい子は、大人しくて素直なタイプが多い。そしてそこそこの本好き。どちらかといえば内向的でもある。
学校の図書室というのは、時に第二の保健室になったり、カウンセリングルームになったりと、図書とは関係のない役割を担う場合がある。児童にとって、司書は〝先生〟の一人ではあるが、教員のそれとは違うことを、明確にではなくとも、子ども自身が多少理解している。担任を親とすれば、司書は伯母もしくは叔母。ともすれば理解のある近所のおばちゃんもしくはおねえさん…といった具合か。身近ではあるが血の繋がりは薄く、大人でありながらちょっと年上の友達みたいな感覚なのだろう。
この手の悩み相談以外にも、ひみつの告白がしやすく、親や教員の愚痴も言いやすい。こちらは親のことまでは知らないし、教員のことは知っているが、異業種なので一歩引いて見ている部分があるため、児童の意見を受け止めて、共感しやすい立ち位置でもあるのだ。
逆に児童のことは、同じ単独職種である保健の先生などからも相談を受けたり、意見を求められたりする。
幸せなことだな…と思う。
全校児童一人一人を知っている…というのは、この仕事に就いてから、自慢できることの一つになった。最低週一時間程度の関わりだが、客観的に見守る部分と、読書ノートの感想などから、心の内面にまでずけずけと踏み込む側面があり、唯、廊下ですれ違うだけ、挨拶するだけの関係では到底知りえないことを、情報として持つことが出来るのだ。
個を知ろうとする癖は、前職での職業病と言ってもおかしくないのだが、経験は確かに力になっていて、それが邪魔になっていると感じたことは一度もない。児童にとって、〝優しく〟〝理解のある身近な大人〟であろうと努めたこともないが、〝密接過ぎないのにある程度知っている〟という距離感が、信頼関係というものを自然と築かせるのかも知れなかった。
学校の図書室は、教室に疲れた児童の逃げ場所にもなる。一人になろうと思えばなれる場所だし、誰かに話を聞いてほしければ、聞いてくれる大人もいる。近すぎず、決して遠くない大人。自分の時に、そういう大人は居なかったから、学校図書館が繁栄していて、司書が常勤しているということに、損は一つもない気がする。
但しそれは当の司書が思うだけでは成り立たない。他の教職員が思うだけでも成り立たない。児童一人一人がそう思って願っていても、成り立たないのだ。
世の中の難しさを感じる。現在の日本では、司書という職業、まして学校図書館司書という職業の地位は果てしなく低い。人一人満足に生活していくだけの収入さえ確保されていない。
文部科学省はあらゆる観点から、学校図書館に司書の配置を推進しているが、それはあくまで〝推進〟に過ぎない。上は大きなことを言うが、言うだけなのだ。
色々なことがとても苦しい。好きなこと、遣り甲斐意を感じること、誰かの役に立っていると実感できることが、人一人生きていくうえで、生活の基盤になるとは限らないのである。
学校図書館司書という職業は、専門的職業としての位置付けが成されてありながら、誰かの庇護のもとに生きている人間、もしくは、道楽で仕事をしていられる人間しか出来ないものなのかも知れないと、近頃切に思う。そして、自分の目が黒いうちに、その状況が社会的に改善される希望があるように思えないのも、現実であるように感じている。