意地悪な人
弟が産まれた時、私は二歳半だった。
母の知り合いの家では、二人目が産まれた時、上の子は下の子をいじめたという。それを聞いて内心心配していた母だったが、実際は杞憂に終わったらしい。二歳半の私は、髪の逆立ったどんぐり眼の新生児を見て、「かわいいねぇ」と目を輝かせたそうだ。確かに、赤ちゃん返りをしたり、ヤキモチのひとつくらい焼く機会はあったのだろうが、私が弟をいじめることはなかったようだ。
一方、家の外での私は、しょっちゅう泣かされて帰って来るような子どもだった。やられてもやり返すという術を知らなかったらしく、初めて近所の友達に叩かれた時は、何が起こったのか解らず、唖然としていたという。その内、叩かれる=痛い→辛い…という構図が自身の中で繋がって、〝泣いて帰る〟のがパターン化したのだろう。
記憶の中で、一番古い意地悪な人というのは、近所に住む二歳年下のSであった。同い年の友達というものが近くにいなかったせいで、Sとは殆ど毎日のように遊んでいたのだが、叩かれ、引っ掻かれ、押されて転ばされ…など、怪我に繋がる意地悪に、連日泣かされていた。やがて意地悪は精神性の高いものへと昇華していくのだが、やり返す力の無い子どもだった私のとった手段はと言えば、彼女の親に告げ口に行くこと。しかしそれで解決するかといえばとんでもなく、訴えたところで無視されるのがオチであった。
「Sちゃんのおばちゃーん。Sちゃんが○○したー。」
Sの母は「ふーん、そうかー」と言うだけで、別にSを叱るでもなく、Sに代わって私に謝るでもなく、我関せずという風情であった。
子どもの喧嘩に親が入らないことを確信的に決めていたのか、どんな悪童でも我が子が可愛かったということなのか、当時の私には解らなかったが、今になって思えば、ただ面倒だっただけなのではないかと思う。放任主義と言えば聞こえは良いが、本当にただ面倒臭いだけ。我が子が外で何をしていようが、誰に迷惑を掛けていようが、そんなことはお構いなしで、単に放ったらかしだったようだ。
そういう親に限って、我が子に何か都合の悪いことが起これば、有無を言わさず平気で他人の家に怒鳴り込んで来たりするから質が悪い。Sの家とはそんな家庭であった。
次は幼稚園の頃。その子の名前は忘れたし、具体的に何をされたかも覚えてはいないのだが、私は彼女と関わる度、心の中で『嫌やな…』と思う毎日を過ごしていた。母曰く、彼女はいわゆる「意地悪な子だった」らしい。家庭環境が複雑だったようで、それが理由の全てでは無いにしろ、何らかの影響を与えていたのであろう…というのが、大人達の見解だった。
小学校の低学年では、幼稚園時代には関わりの無かった、同じ住宅内に住む同級生へと役回りが移る。
M子は相手に依って、巧みに表情を使い分ける子どもだった。近所に住む自分の子弟達には〝優しい〟お姉さん。親や教師には〝愛嬌のある〟可愛い子ども。私の前では〝良き友〟を演じる一方で、時に〝鬼畜〟となった。
M子について、特別印象深い思い出が二つある。
ある日、私達が遊んでいる傍らで、私達の母親同士が立ち話をしていた時、M子の母が何気なく、私の付けているヘアバンドに手を触れて髪の乱れを直してくれたのだった。間もなく親達がそれぞれ家に戻り、M子と私が二人になるや否や、彼女は膨れっ面をして怒り出した。
「M子のお母さんやのに!」
『知ってるよ』と思った。
ヤキモチであろうことは幼心にも解ったが、違和感を感じたとしたら何なのだろう。本音を言えば『そんなことで?』という気分であった。
立場が逆だったとすればどうか。
うちの母は、家の中では毎日鬼の形相で子ども達を怒りまくる、私にとって恐ろしい存在であった。しかし、他所の子どもに対しては別人のように優しくなる。外でも人前でも、我が子が一言発せば途端に鬼の顔に戻るのに…である。私は実に淡々と思った。
『ママはうちの子は嫌いやけど、よその子は好きなんやな…』
何と切ない子ども心であろう。しかしそんな切なさに気付くのはそれから何年も後のことで、我が母とは、私にとってひたすらに脅威ではあっても、愛情を求めてヤキモチを焼きたくなるような対象では無かったのである。それ故、私が〝よその子に優しいうちの母〟を目の当たりにしたところで、〝切ない子ども心〟に淡々と気付いたとしても、〝ヤキモチを焼いて相手にキレる〟などということは無に等しかった。
M子の家庭は幸せだったのであろう。ドラムを演奏し、〝117クーペ〟(どんな代物かは知らないが、M子があらゆる人にいつも自慢していた)を乗り回す二枚目のお父さん。美人で優しい、大好きなお母さん。M子自慢のカッコいいお兄ちゃん。
実際、肉屋の店先で仲良く腕を組み、商品を品定めしているM子の両親を見掛けたことがある。うちの家では、両親が腕を組んで歩く以前に、二人仲良く買い物することがあったかどうかも怪しい。子どもながらに衝撃を受け、仲睦まじいその様子を心から羨ましいと思った。
又、M子の兄は彼のクラスでも人気があったようで、M子はその同級生の女子達から、常にチヤホヤされていた。人気の無い男子の妹だと、いくら可愛くたってそうそう相手にはされない。
ある時、道を歩いていて突然背後から「Mちゃ~ん」と甘ったるい声で呼び掛けられた。振り向くより早く、年長の女子二人組が回り込んで来て、私の顔を見る。すると、二人は示し合わせたように「おえーーーっ」とえづくフリをし、一目散に走り去って行った。私は目が点になった。
M子と私は背格好が似ていたらしく、ごくたまにではあるが近所の人から間違えられることがあった。そのことをM子は極度に嫌がったし、他の友達にそれを愚痴っているのを耳にしたこともあった。とはいえ私に取れる対処は無い。
しかしこの一件に、私は流石に傷付いた。年長の女子達に対し、『自分達が勝手に間違えたくせに!』と内心憤る一方、自分とは、顔を見て吐き気を催すほど醜い存在なのかと、ショックを受けたのだった。
一方、M子の幼馴染にはT君という、まるでお人形のように綺麗な顔をした男の子がいた。今思えば、私は特に彼を好きだったわけではなく、見掛ける度に『何て可愛い顔なんやろ…』と、心の中で溜息をついていたわけなのだが、それを何かの拍子にM子に言ったのだろう。次の日には予想もしない事態になっていた。
「T君、知ってたわ。Bちゃんの好きな子誰か知ってる?って訊いたら、僕やろ?って言ってたでー」
悪びれる様子もなくM子の口から飛び出した言葉に、顔面蒼白となった。
数年後、私には好きな人が出来た。正真正銘の初恋である。
K君は背が高く、勉強も運動も出来て学級委員までやってしまうが、あまり主張しないクールなタイプであった。実際、秘かに心寄せる女子が多かったのか、M子は私の初恋を知るなり何処からか情報を仕入れては、聞いてもいないのに私に話して聞かせた。
「K君のこと、○○ちゃんも××ちゃんも好きなんやって。△△ちゃんも好きって言ってたわー。」
その内M子は、私の目の前でK君と必要以上にスキンシップを取るようになった。見方によっては、子どもの無邪気な戯れだったのかも知れない。しかし、前後の席に座って、にこにこと至近距離で会話するのを見ているだけでも胸が痛む私には、何故目に入る場所で手の平を合わせてサイズ比べをしたり、指を絡み合わせて手を繋いだりする必要があるのかまるで解らなかった。
結局M子とはクラスが離れて密接ではなくなったものの、中学一年までは一応、友人と定義される関係だったように思う。
和歌山に新居を買って転居するという話を引っ越す直前に聞いた時、ギリギリまで話してくれなかったことに少なからずショックを受け、寂しさに少し泣いた。しかし彼女が他の友達に「何であの子に言わなあかんねんなぁ?泣かれる意味も解らんし…」と話しているのを聞いて、色んなことが一気に冷めたのだった。
実際は、その少し前から付き合い方は変わっていたように思うが、元来人見知りで友達が多いわけではない私には、何処かでM子に対する依存心のようなものがあったのかも知れなかった。結局、転居したことで、私はM子の見えない呪縛から解放されたのだった。
Mは小学校中学年頃から急に太り出し、中学に上がる頃には立派に〝肥満〟と評されるようになっていた。元々モデルのようなビジュアルで、小学校二年生の真冬に黒いパンストに短パン姿という出で立ちで公園に佇み、その美脚を晒して子どもの私に衝撃を与えた彼女も、翌年には見る影もなくなった。又、トイレに行きたいわけでもないのに、度々股間を抑えるという妙な癖を身に付けてしまい、周囲は異様に思いながらも、露骨に口を出せずにいた。
太ったのは病気のせいらしい…という話もあったが、具体的な病名を知る者はおらず、大人でも知らないそんな難しい話を、中学生の自分が問うのも憚られる気がした。
股間を抑えるのも病気のせいなのだろうか…だとすれば、それはどういう病気なのだろうと思った。Mとは自宅が近い上、部活も同じとあって、共に通学することが多い。肥満と妙な癖は、時に陰口の対象であったが、〝病気のせい〟というハッキリしない噂を前提と捉えれば、変だと思っていてもそれを口にするのは自身の美学に反した為、私は見て見ぬふりを心掛けた。
中学三年の進級と同時に、私達は同じクラスになった。Mにはその時、既にFという美人で優等生の級友がおり、そこに私が加わってグループ化した形になったのだが、Mは時にFだけに話しかけたり、Fだけを連れて何処かへ姿を消したりした。
私も他に共通の趣味を持つ友が出来た為、三人の輪にそれ程拘ることはなかったのだが、違和感がないと言えば嘘になった。唯、クラス全体が割と仲良く、人見知りの私も嘗て無いほどグループの境を気にせずに楽しんで日々を過ごせた珍しい一年だった為、不信感に支配されることは少なかった。
時は経って成人式の日。紆余曲折の末、すっかり擦れた人間になっていた私は、直前まで渋り、結局親の希望に押し切られる形でそれに参加することになった。
その日を楽しみに、友人達と再会する為の準備を万全に整えていた人々と違い、義務的に〝行くだけ行った〟私には特に約束もなく、会場に着いた途端、来たことを後悔した。
色無地に袴姿での参加。振袖姿のその他大勢に比べると頗る地味であったが、友人や恋人と申し合わせてやって来た人々の輪から明らかに外れており、美容院任せにした髪(ポニーテールにしたロングストレートの付け毛)が逆に目立ってしまったことから、自身の場違い感を更に実感してしまったのだった。
Fは、新成人だが嘗ての同級生ではないらしい彼氏と常に一緒で、こちらを寄せ付けない雰囲気を醸していた。中学時代はほわんとした天然で、美人ということを意識させないところが付き合い易かったのだが、この年になって男連れで歩いているのを見ると、何だか別世界に住む別人のようであった。
Mは昨日まで中学生だったかのようにFの傍に飛んで行き、テンション高く一人大騒ぎしていた。肥満体は相変わらずで、真っ赤な振袖に白いファーを捲いている。髪は気合満点にカールされていて、不自然なアピール力に満ち溢れていた。
私は式の後、取り敢えず部活仲間の輪に入っていた為、そこへやって来たMにも声を掛けた。
「久しぶり~。その髪、可愛いなぁ。
にこやかに話しかけたつもりだったが、思ってもいないお世辞だとバレたのだろうか。Mは私を見据え、真顔で言った。
「ふん、ほっといて!」
茫然自失の私を後目に、彼女は他の友人の方を向き、何事もなかったかのようにへらへらと話し出す。気に障った理由が解らないまま、私は彼女に関わるのをやめた。
Mとは同じ住宅内に住んでおり、又、それぞれに犬を散歩させていたことから、進学や就職などで生活スタイルが変わっても、週に何度かは道々顔を合わせることがあった。しかし犬同士が友好的でなかったこともあり、本当に顔を合わせるだけで互いの目的地を目指す為、挨拶すらしないのが常であった。特に成人式以後、私の方が見て見ぬフリをすることが多くなった気がする。
ある日、一度の散歩中、幾度にも渡ってMと出くわしたことがあった。一足先に自宅へ戻り、玄関先で後処理をしていると、数メートル先の小学校の前に、Mとその犬が立っているのが見えた。
「いや~、久しぶり~。Bちゃんやったんや~!」
一体何を言っているのかと思った。しょっちゅう顔を合わせているというのに、何を今更…。お互いをお互いと気付かないほどに見た目を取り繕っているわけではないし、どちらかが極端に変わったわけでもない。私は一瞬Mをじっと見据えたが、聞こえなかったフリをして、玄関の扉を閉めた。
Mもまた、引っ越して行った…と言えば聞こえは良いが、実際は父親の経営していた会社が倒産し、夜逃げ同然だったと聞く。風の噂では、両親は離婚し、水商売をしていた母親が再び夜の仕事をしながら家計を支えているらしい。それを聞いた時、ふと昔々の話を思い出した。
Mの家にはコピー機が在ると言う。そんな大がかりな機械が自宅に在るなんて、小学生の私には夢のような話であった。羨ましがる私にMは言った。
「言ってくれたらいつでもコピーしたぁげるよ」
コピー機は父親の商売道具である。子どもの遊びで使って良い代物ではないので、冷静に考えれば可笑しな話ではないのかも知れないが、上がったテンションは付け加えられた一言で急落した。
「一枚十円で」
口には出さなかったが、心の中で呟いた。
『そんなんやったらコンビニでコピーするわ…。』
数年後、百貨店のエレベーターで一組のカップルに遭遇した。ルーズで色鮮やかなカジュアルファッションの二人は仲睦まじく、手を繋いだまま周りを気にせずに独自の会話を続けていた。
背ぇ高のっぽ彼と、私よりも背の低い小太りの彼女。
『身長差…すごいな、この二人』と思った瞬間、その彼女がMであることに気付いてのけ反りそうになった。
今回はお互い化粧もしており、服装も随分趣向が変わっていた為、彼女が私に気付いたかどうか定かではない。
帰宅後、母にMを見掛けた話をした。
「良かったな~。どうしてるかと心配したけど、苦労した分、ちゃんと幸せになったんやなぁ。ホンマに良かったわ」
誰の口から出た言葉かと思った。私の心とは全く別のこと言う母に、明らかに複雑な思いがした。
あれから十年以上が経つ。
社会経験を経て、私も少しは大人になったのだろうか。今はMがあの時の彼と…又は別の人とでも良い出会いをして、幸せな家庭に恵まれていれば…と、心から思う。