一つ荷が下ろせた話
ひとまず何かがいっぱいいっぱいになってきたので、最近の気持ちを言語化してみます。
最近は自分のニーズがはっきりしてきたような気がしています。
売れる為の研究は、仕事のパートナーの方と出来ていて足りています。
あとは、外へと一歩踏み出すだけなのかな。
ただ愚直に行動するのみのような気がしています。
若い頃から15年間ほど予算度外視して自分にとって崇高なもの作りを目指していました。
絵を描くための絹の布を買うだけですでに10万円くらいしていて、それでも自分の思う世界が表現できたら満足だと思って必死でやっていました。
夫は黙って時間もお金も全て注ぎ込んで、結果的に家族を振り回している私を見守ってくれていました。
2016年の10月にあった展覧会の初日に子どもが産まれ、展覧会がどんなものであったか分からないまま育児に突入しました。
その劇的なまでの日を選んで子どもが生まれてきてくれたということに意味を感じざるを得ません。
出産をしてから、あれこれ物作りを手放さないでいようとチャレンジしてみましたが、息子から強い揺さぶりを受け、子育てに全力投球しないと体力も気力もどうしようもなく本当に大変な日々でした。それでも、なんとか足掻きたくて絵本の仕事を受けたり、小さな子どもを小脇に抱えながら、染色教室など必死になってやっていたように思います。
子育ての初期の頃に布に対する意識が変わる出来事がありました。
沐浴をしている時、赤ちゃんの胸元にガーゼを乗せるのですが、それが外れた瞬間、赤ん坊は大慌てでわたしの髪を掴んでバタバタしたのです。急いで胸元にガーゼを戻すと、再び全身に入った力を抜いて安心しきっている姿を見て布って凄いと初めて感動しました。
そこから、じわじわと自分のこの染めの技術できちんとお金を得て、地に足をつけて息子を育てていきたい、側にいる激務で大変な夫の仕事の負担も自分の収入で助けてあげたいとも思うようになりました。
物を売るノウハウのない私はギャラリーと2021年から繋がり、商品作りをはじめました。作家としてやってきた大切にしている部分を踏みにじられていると感じることもありましたが(相手は至極真っ当な事をおっしゃられているだけです)、そこから学びも多かったです。
自分の想いと、反応のあるものの温度差も体験としてあり、自分ではなんでもないもの、ライトにアウトプットしたものが沢山売れる現象も目の当たりにしていて、そこをもっと理解して咀嚼出来たらいいなと感じています。
作りたいものと、売れるものにはよく観察すると僅かな違いがあり、季節や販路にも大きく影響されます。そこの路線の見極めはやはり必要だろうと先輩方の言葉にあり、それは自分の物作りの意図を曲げるということではなく企業努力(企業ではないですが)だろうと先輩達が話されているのを聴きなるほどなと感じました。
なので客観的に自分の仕事をみるために人と作品作りをするって大事だなと感じていました。
ただそれも3年を過ぎ、最近は売れるもの作りとは逆に自分の目指す崇高な世界に再び向き合いたい気持ちがあります。
その世界観で自分の満足できる金額で売れれば御の字ですが。
長い間もの作りをしていてそこを叶え切っている人は一握りで、しかも一過性ではなく継続的にそこを叶え続けられている人は命がけでやっている人が多く時に危うさも感じます。
何人か知り合いもいなくなりました。
またそこに向き合うのかと相反する想いが立ち上がっているのが最近の私ですが、どちらも自分にとって大切なことだと直感的に感じるのです。
ただ、どうしてもそこに向き合おうとすると重い気持ちになる私の中に、最近急にある言葉が立ち上がってきたのです。
「どんな作品を作ろうが私の価値は変わらない」
ハッとしました。
やっとこの言葉を言える時が来たのだなと。
この言葉を自分に言ってあげられる為にこの作家活動の20年があったのかもしれないとすら感じました。
この気づきを人に宣言しないと、という気持ちになり、勇気を出してsnsや親や友達に発信したときに、何か長い間背負っていたものを少しだけ下ろせた気がしました。
人にとっては、まだそんな事を言っているの?
今更?
とか色々あると思いますが私にとってベストのタイミングだったのだと思います。
まだまだ、すぐに気合いが入りすぎる私ですが、そういった緩んだ気持ちで自分だけの世界を再び表現していければいいなと感じています。
2024年は、「売ること、売らないこと、どちらもやる」と簡単に書いていますが、実際やってみるとかなりのエネルギーと時間が必要になるだろうなと思います。
その先のことは分かりません。
やってみて自分がどう感じるかみてみたいと思います。
何はともあれ冒頭に書いた通り愚直に行動するのみですね◎
書いてスッキリした気がします。
ありがとうございました^^