こんにちは 最近はチーム活動を中心に生活しているため、頭の中が龍龍しています。 それぞれがそれぞれの持ち味を活かして、日々連携プレイが素晴らしいです。 最近はSNSで簡単に繋がれるからこそ、人間関係は希薄になっている気がします。 年代的に忙しいというのもあるけれど、どこか利害関係で成り立つような繋がり。 私自身は簡単に人と繋がるのが苦手だからこそ、ゆっくり相手を知っていきたいし、ありがたく繋がった方とは、そうそうに縁を断ったりしないタイプなので、世の
自分の内側内側っていうけど、内側ばかり見るだけではなく外側も見れる人でもいたいと思った。
10年前 人を味方かどうか、同じ種類か共通言語が使いあえる人か、慎重に岩みたいに固まって観察していたあなたがいたよねって長年知ってくれている方に教えてもらいました。 異質さが混ざるのを拒んで。 今もその瞬間もあるけれど、すぐに溶けてなくなります。 色んな人と溶け合うのは面白いですね。 新しい要素があるからこそ新しいものが生まれる面白さがあって。 待って眺めてみると川の流れのように様子は変化していきます。 自分も周りの景色も。 行動力も10年前は全くなく、恐れがすぐ立ち現れて
私は自然派のものも好きだし、人工的なものも好き。 それは、食に関してもそうで、手作り無添加の優しさも心から嬉しいし、時々ジャンクフードも美味しいなと思う。 表現もそうで、古の人々が着ていそうな服にも心動かされた時もあるけれど、ハイブランドの無機質な感じも好き。 だから、どちらにも偏りすぎないというのが私の今のところの表現なのかなと思う。 ナチュラルな表現に無機質なシルバーを重ねたり。 天然の染料で染めたものに蛍光の糸もスパイスに施したり。 アートであり商品でもあるし、
ひとまず何かがいっぱいいっぱいになってきたので、最近の気持ちを言語化してみます。 最近は自分のニーズがはっきりしてきたような気がしています。 売れる為の研究は、仕事のパートナーの方と出来ていて足りています。 あとは、外へと一歩踏み出すだけなのかな。 ただ愚直に行動するのみのような気がしています。 若い頃から15年間ほど予算度外視して自分にとって崇高なもの作りを目指していました。 絵を描くための絹の布を買うだけですでに10万円くらいしていて、それでも自分の思う世界が表
どん詰まりだと思ったら、実は反対側に希望。 やりましょう、やりましょう! いきましょう、いっちゃいましょう!
最近はあまり遭遇しなくなったけれど、20〜30代のころよく思っていたこと。 表に立つという事は、行動や発言、成果物に対してジャッジメントがかかる。 表に立つ上ではそれを甘んじて受けるべき、と言う人もいるしそれが成長のきっかけに繋がる時はあるけれど、幾つになってもなんだか私はなかなか慣れない。 そもそも表に立つからといって受け入れなければならないのか、慣れる必要もあるのかも分からない。 立ち向かうことと、立ち向かわなくてもいいもの、 一度くしゃくしゃに丸めた紙は元には戻ら
後は歌って踊れる人になりたい。 沢山の人の前で自由に飛んだり跳ねたりさえずったり。 私が望んでいるゴールって本当にそこだけなんだって。 以前から知っている素晴らしいパフォーマンスをする方と今日初めてお話しして、染めも手段は違うけれどライブなんだなと思った。 何かのご縁ということで一緒に帰りましょうと歩いている頭上に、黄緑色の鳥がどこかへ向かって、可愛く歌っているのを見つけた。 誰かを呼んでいるのかな。 かわいいな。 うれしいね。
星の坊主さんのマニー合宿に入って、十分与えられている事に気づくだけで循環するという学びをしています。 そうすると、どんなことでも当てはまるというか、 結構、人って思い込みで生きているのだなと感じさせられるのです。 そしたら、絶対君のこと認めないぞ!と頑なな意志を送り続けられているある人から、急にお褒めの言葉をいただいたのです。 十分与えられている事に気づき始めたら、十分頑張っている自分にも気づき始めました。 思い込みが強く、石のように固い自分の背中を夜中に作業するた
言葉数多かったり、語彙力ある人に翻弄されることが多いけれど、、 色々分析する人は、だいたいたった数回しか話していなかったりする。 空想だけでよくそんなに上手に膨らませられるなと感心する。 噂話も、群れるのも苦手だから静かに暮らしているけど、真実は残ると信じたい。 今日は色を染めようと布の前に座ったきり、何もできていない。この緊張感、非効率よね。 しかし、毎度こうなんだよ。 後戻りできない染め。 非常に身体的。 常に直で対していきたい。
人生なんて設計できるわけないやろ って今日昨年退官された大学の先生が食事会でうなっててしびれた。
昨日の6才の息子の発言 僕は嫌いな人も好きやと思うようにしてるねん。 だって嫌いと思ったらその人に失礼やろぅ。 だから世界中の人が好きやねん。 大我やなぁ。 私もその境地になれるのかなぁ。
会ってまなしの人で、なぜか家に来たいというリクエストを受け、内心心配だったけれど、家に上げてしまった私。 息子と私のやりとりを見ていて、何か分析されていたよう。 今日、「あなたと息子さんは兄弟のようね。」とコメント。 「へ?私はお母さんじゃないってこと?」 と聞き返すと、、 「これ言っていいのかわからないけど、、。ほら、与えてもらってないものって表現できないでしょう?あなたは、子供へというよりまだお母さんにやってもらいたい事が沢山あるのではないかな。認めてもらうとか
ここのところ思う事。 お母さん方、子どもを傷つけまいと必死すぎるような。 不公平にならないように、自分の子供が傷つかないように。 私にその感情がないっていったら嘘になるけど、あまりにも過敏。。 それもこれも経験の一つでもあるのではと思うのです。 あと、子育てのマニアになりすぎて、プロの心理師のようにあれこれジャッジメントしてくるお母さん。 分析してくれなくていいのです。 なんだか母の集団って必死すぎるのか、とても疲れますね。 私は、もうちょっと子どもへの眼差し
人がどう思われているのか、情報操作しようとしない。 どう思われていようが構わない。 好きにとってくれ。 共感者はいらない。 私が私に共感していればいい。 というレッスンに入ったようです。 ひぇ〜
私は人の悩み事の相談を定期的に何人かから受ける。 その際、自覚してなかったのだけれど、ものすごく淡々と聴くそう。 悩み事の話を聴くと2、3日尾を引いてずーんと落ち込む人が多いそうなのだけど、私は全然響かない。 その淡々とした感じに救われると言ってくれる友人が多く、何なのか分からないけれど悪くもないのかな。 どこからその淡々としたものが生まれてきたのかを昨日友達がまた駆け込み寺のように我が家にやってきて話を聴いているときに、はっと分かった。 何度も書くけれど、28才で結