人生が旅行なら、明日帰ることになっても慌てないように。 毎日お土産見つけよう。
「何で生きていかないといけないの?」という疑問から始まった、わたしの日常アソシエです。
何もできないまま歳をとっていく。
このまま何を完成させることもなく終わっていく。
無気力だったときは、毎日そんな気持ちでした。
何もする気になれず、何にも興味を持てず。
「何で生きていかないといけないのか」
「生きるためには働かないと」という言葉を聞くのが辛かったし、あまり理解もできなかった。前提からして理解できない。
「生きるために」って、どうしてみんなごく自然にそう思えるのか。
適当に生きていたときは、そんなことは思わなかった。
目の前にある仕事を、生活を淡々こなすことで前に進めていた。
しかし一旦立ち止まってしまうと、さっぱり分からなくなってしまった。
「なんで、生きていかないといけないの?」
うーん。ちょっと違う。
「なんで『生きないといけない』って、思えるの?」
とでも、言いましょうか。
誰かを養っている、誰かに必要とされているというなら、まだ分かる。
その誰かのためにも生きなくちゃ、と思えそう。
でも世の中そのような状況にいなくても、大義名分がなくても、ちゃんと生きている人がいっぱいいる。
なんで...? なんでちゃんと生きていけるの?
あら厨二だわ...と思いながらも、ドツボにはまってしまった。
一旦気になり始めると、そのことばかり考えてしまう。
早朝のコンビニで働いていたことがある。
出勤前の人が多勢寄っていく。
その中に毎日来る建設関係のお兄さんがいて
彼の口癖が「あー眠ぃ。あー行きたくねぇ」だった。ほんと毎日必ず言う。
そういうことを言うわりに、とても爽やかなので不思議な人である。
ある寒い日の朝、外も暗い時間に入ってきた彼が
「風邪ひいて熱っぽいんだよー。あー行きたくねぇー」と喚くので
「そんなに行きたくないなら、行かなくてもいいんじゃないですか」
と、うっかり言ってしまった。時々言わんでもいいことを言ってしまう。
すると彼は、
「そうは言っても、生きるためには働かないとねぇ〜。木嶋ちゃんだってだから働いてんしょ?」と答えた。
あまりにも「何言ってんの?」みたいな顔をしたので、「はぁ」としか言えない。それでも、彼もまた「何で生きなあかんねん」については、考えたこともないようだった。
いつも通り、手をひらひら〜と振って「ほな行ってくるわ〜」と出て行った。
その後も彼は、毎日淡々と仕事に出かけていった。
そういう彼を偉いとも思ったけど、やっぱり不思議だった。
嫌なんちゃうんかい、と。それなのに生きてくんかい、と。
なんなんだ、みんな。
何か擦り込まれとるんか。脳みその芯あたりに。
どうも、わたしは脳みそへの「生きろ!」擦り込みが弱かったらしい。
誰が擦り込んでくれるのかは知らないけど、
このままだと人間をやること自体が危ぶまれる。
間違っていても嘘でもいいから、まっとうに生きるために何か答えを見つけよう、と思った。
周りに尋ねると、だいたい同じような答えが返ってくる。
「みんなね、あなたみたいに暇人じゃないから。そんなこと考えてる暇ないわけよ。くだらんこと言ってないで、働け」
「そんなこと誰も考えもしないんじゃない? 気にしたってしょうがないでしょ」
それは分かる。わたしも以前はそうだった。
ということは、みんな特に答えも持たずにそう思えているのだ。
すごくない? 考えないで従うってことは、つまりは本能なんじゃない?
そうだ。生きていくっていうのは、たぶん本能だ。
動物は、悩まないもんな。こんなくだらないことを。
しかし、己の欲望に弱いわたしが、何で最も肝心な欲望を失いかけているのか。
そりゃもう、本能に抗おうとし過ぎたからだ。
本能に従いたいのに、それに逆らおう、逆らおうとして生きてきた。
そうしないと、周りに受け入れてもらえないと思っていたし
欲望を殺して何かを成し遂げることに、生きる価値があるとさえ思っていた。
馬鹿言えー! と今なら言える。
「生きようとする」のが本能なのだとしたら、本能を理性で押し込めて生きることは「生きようとする」ことを否定することと同じだ。
人間だからこそできるっちゃ、そうなんだけど。
ときに理性による抑制は必要だろうけど、大事なとこまで抑えたらあかん。
なんで気づかなかったんだろう。
自分の本心に嘘をつくことは、生きていくことをだんだん困難にしていく。
うつになるのも、精神的に疲れちゃうのも、このあたりに原因があるのではないだろうか。
守る相手も、必要とされる相手もいないとき(本当はいるだろうけど)、
自分の「生きよう」という欲望=本能が弱まっていたら、生きていくことがとても空虚に感じられるだろう。
人間は動物だ。忘れてたけど、上っ面は高等生物だけど芯は獣だった。
価値を高めようという向上心があるのは人間ならではだと思うけど、
それ以前に、ただ生きているだけであっても動物としての幸せを享受していないといけないんじゃないのか。
夢とかお金とか出世とかはさておき。
あーご飯美味しい、あー眠れるって幸せ、お、あんなとこに花が咲いてるやん、今日は虫が鳴いてるなー、渡ってくる夜の風の匂いが好きだなー。
まず本能が蘇ることだ。思考より五感。
よし、次。
そしたら、今度は人間らしい喜びも感じてみようじゃないの。
感情を動かされてみよう。
○○さんがこんなことをしてくれた、ラジオで面白い話が聞けた、映画で泣くほど感動した、素敵な人を発見した、あの歌手の歌声が心に響く。
などなどなど。
「自分がやったことじゃない」ことがいい。自分はただ受けとるだけ。
自分の周りの世界をただ眺めて感じ取るだけ、ひたすら受け身。
よい方向に感情が動いたら、それを反芻する。
悲しいニュースだったら、その対象に対して行動を起こしている人を探してみたりする。たいてい悲しいこと苦しいことの裏には、それをひっくり返したいという人がいる。ただの悲しい事象に留めない人がいることを知ると、わたしは心が動かされる。
そうしているうちに、もっと見たくなる、もっと知りたくなる。
これこそが「生きていく理由」になるんじゃないかと思う。
生きていかないと「いけない」という強制力はないけれど
「もっと続きが見たい」という欲が、生きていく理由を勝手に作ってくれる。
「自分がどうなりたい」というのは、あんまり関係ないらしい。
死後の世界を知らないから何ともいえないけど
感情が動かされるということ=感動は、生きているからこそ味わえる「生きているから特権」。
だとすると、「生きていかないといけない理由」は、「もったいないから」なのかもしれない。
喩えるなら、人生は旅行。人間旅行だ。
途中で「もうやだ。帰る」って帰っちゃったら、ツアーコンダクターはびっくりだろう。「え、もう戻ってきたんですか? そんだけしかお土産もないのに?」となる。
生きているうちに、なるたけ沢山の面白いこと、感動することに出会って鞄をぱんぱんにする。
新しいことたくさん知って、味わって、感動しまくって、そろそろ帰る時間やなーっていうときに、「うわーいっぱい感動した。みんなにいっぱい土産話できるぞ」っていう方がいい。みんなが誰かは知らんけども。
物は持っていけなくても、もしかしたら、魂に刻んだお土産は持っていけるかもしれないじゃんね。
死ぬときに「あーおもろかった!」と言いたい。
ほら見てよ、お土産で鞄がいっぱいだよ、と。
この「人生はお土産いっぱいゲットした方がお得」論には、いいことがある。
それは、たとえ急遽「すいませーん、明日帰ることになりました」となっても「えっ?! まだ何もやってないのに、延長できませんか?!」ってならなくていいってことだ。
「そかそか、もうお土産山ほどゲットしたから、いいよー」と、言える。
自分の人生をこの先の未来に託さなくても、今に至るまでに、もうありとあらゆるお土産を手に入れているから、常に思い残しがないわけだ。
さらにいいことがある。面白がったり、感動したりを続けると、何かが湧き上がってくるようになるのだ。「わたしもこの感動を誰かに」という気持ちになってくる不思議。
大きなことをやりたくなったら挑戦すればいいけど、小さなことでもなかなかの充実感である。隣にいる人をめいっぱい笑わせるだけでも、すごいもんだよ。
未来に不安がある人でも、今何かに苦しんでいる人でも、一日に1つお土産見繕うくらいなら、できそうじゃないかしら...。
むしろ不安だったり苦しんでたりする人の方が、ちょっとしたことにでも感動できる。他人のありがたみ、些細な思い遣りを、敏感に感じ取れるし、それがすごく刺さるから。もう相手が神様みたいに見えるから。そんなに大きなお土産でなくても、思い入れはひとしおのはず。
感動することが「生きてるなぁ」って感じることに繋がって、「生きてるなぁ」って感じることが、生きていくことに繋がるのだと思う。
何かを競いながら、耐えて耐えて勝ち取るのも生き方だけど、わたしのような呑気な人間には、まず人間であるから出来る体験、感じられる感情を満喫して、この人間旅行を楽しむことの方が大事みたいだ。
そうしたらもう、生きていく理由なんていらなくなるかもな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?