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第22章:裁判所からの和解の提案

この日は、単なる弁論準備期日ではなかった。裁判所は、いよいよ「和解」という選択肢を正式に提示してきたのだ。長期化する法廷闘争を終わらせるための一つの道筋として、和解の可能性を探ることが求められた。

和解。それは、決して悪いことではない。むしろ、時として最も合理的で、現実的な解決策になり得る。裁判が長引けば長引くほど、双方にとって大きな負担となる。時間的な制約もあるし、精神的な疲労も無視できない。しかし、問題は「どのような形での和解を受け入れるか」、そこに尽きる。

われわれの主張は一貫していた。船井総合研究所が著作物を無断で使用したことは明白であり、それをうやむやにしたまま和解に持ち込むわけにはいかない。裁判において、単なる金銭の授受だけで決着をつけるやり方には、強い違和感を覚える。なぜなら、本質的な問題が解決されない限り、同じような行為が繰り返される可能性があるからだ。

こちらが考えている和解案は、極めてシンプルかつ明確だった。船井総合研究所が公式に謝罪広告を出し、自らの過ちを認めること。単なる「申し訳ありませんでした」という一文ではなく、どのような行為が問題であったのかを具体的に明記し、今後同様の行為を繰り返さないという誓約を公に示すこと。これこそが、私にとって譲ることのできない最低限の条件であった。

裁判というのは、単に勝ち負けを決める場ではない。それ以上に重要なのは、社会に対してどのようなメッセージを発信するかという点だ。このケースで言えば、「著作物を軽視する行為が許されない」ということを明確に示すことこそが、本来の目的である。ただ金銭的な賠償だけで終わらせてしまえば、また別の誰かが同じような被害に遭うことになる。それを防ぐためには、相手に責任を認めさせ、適切な形で謝罪させることが不可欠だった。

次回期日までに、われわれ側が正式な和解案を提出し、それを船井総合研究所側で検討した上で、意見を返すことが決まった。このやりとりが、今後の流れを大きく左右することになる。彼らが本当に誠意をもって謝罪広告を出すつもりがあるのか。それとも、単なる時間稼ぎの戦術に過ぎないのか。これまでのやりとりを振り返れば、後者である可能性が高いことは明白だ。

実際、これまでも彼らは曖昧な態度を取り続け、責任を真正面から受け止めようとはしなかった。少なくとも、裁判所の前では表面的には「和解の方向で検討する」と言いながら、裏ではどう考えているのかは分からない。もしかすると、謝罪広告を出すつもりなど毛頭なく、時間を引き延ばしてわれわれ側の疲弊を狙っているだけかもしれない。

だが、それでも裁判所が和解を強く勧めている以上、この道を慎重に進めるしかない。仮に彼らが本気で謝罪広告を出すならば、和解には一定の価値がある。しかし、彼らが謝罪広告を拒否してくるようならば、それは到底受け入れられるものではない。

そして、いよいよ決断の時が迫っていた。次回期日までに、彼らがどのような対応をしてくるのか。それによって、こちらの方針も大きく変わることになる。

「謝罪広告を出すかどうか、それが全てだ。」

和解の道が見えてきたようでいて、実際にはまだ何も決まっていない。彼らの出方次第では、裁判を続ける選択肢も視野に入れる必要がある。しかし、それを決めるのは、次の一手が明らかになった時だ。

この戦いは、まだ終わっていない。


※ご注意:記憶を頼りに書いておりますので、内容が変更される可能性があります。ご了承ください。

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