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Dæmonナ者


「ぼくらは繋がっている…」



ぼくらは週末もっぱらヤツらと歩く。
今日は家から車で10分の小山にきたってもんだ。

1000Mもないこの小山は洒落た店など皆無ゆえ人気がないようなのだ、ぼくらは好きでたびたびきてるけれど人に会うことはまれでとてもいい!


以前、ポウくんが見えなくなってすぐの時、隣人とリルの3人で来たがその時、ぼくはゾンビで、そこは地獄だった。

あいつと「繋がれている」のがこんなにも楽しいとは!
鉛の如き生気のない鈍足と狂気のリズムをドゴドゴ奏でる腐った心臓に鞭打って独りで登ったあの時と同じ山だとはとても思えない!

今、ぼくの前にはポオがいる。
彼がピョンピョン行けばぼくもピョンピョン行くのだ!
樹や空や土や光、何もかもが煌めいてみえる!
なんて世界は美しいんだろう!
「繋がった」だけでなんと世界の見方が変わるだろう。

隣人とリル、ぼくとポオ、4匹の群れで山頂の丸太に座り、コンビニパンを分け合って喰う!
なんてことない菓子パンのこの美味さときたら!
アリガタウアリガタウ共ニ在ル幸セヨ、だ。
このように、ご機嫌なサルは浮かれる、この重力の無さときたら!

ぼくは、愉しい。
ほんとうに、愉しい。
ただ歩くだけのことが!
ただ菓子パンを食うだけのことが!
ぼくはもう独りではなく、彼が共に在ることが!




ここのところ隣人の大好きな「ライラの冒険」のドラマを見るのが夜の楽しみになっているが、この「ダイモン」という存在の発明には恐れ入る。

ダイモン(Dæmons)
ライラの世界において、全ての人間が持つ守護精霊。子供のダイモンは姿が定まらず自由に変化することが出来るが、大人になるとその人間の本性を表した姿に定まる。

Wikipedia


あからさまに「キリスト教批判」的な内容なんだ。
「教権」と呼ばれる支配集団が子供らを使って分身であるダイモンを「切り離し」する実験を行ったりするのだけど、その「肉体」と「魂」の切り離しの残酷さ、えげつなさ、見ているだけでもゾッとする、そう、肉体も魂もゾンビになるのだ。

「土から離れては生きられないのよ」

と、シータは言うけれど、まさに、

「肉体から離れては生きられないのよ」

が、ダイモン(魂)なのだ。

例の宗教の影響なのか人間様は「私」という魂が永遠に在ることを信じたがっている、けれど、ダイモンがそうであるように、肉体が滅びる瞬間に魂はは塵と化す。
それをぼくは、「ああ、悲しいな、美しいな」と思うのだ。
この肉体と魂が「切り離せないもの」であり、どちらもどちらを慮って慰る様子がたまらない。一方の痛みはもう一方の痛みでもあり、一方の成長はもう一方の成長でもあるのだ。
こういうふうに「魂」を具現化して見せてくれると非常にわかりやすく、非常に愛着が持てるのだ。

そんな互いにがっつり繋がって生きるニンゲンとダイモンなのだけど、コールター夫人とそのダイモンである金色のサルの関係が気になってしょうがない。
彼らの関係は非常に奇妙なのだ。
ダイモンはそのニンゲンの魂ということで、ふたりは通常仲良しで会話もするのだけれど、このサルはまるでしゃべらない、しかも離れても平気なのだ。さらにコールター夫人は自分の魂であるサルを虐待する。サルは常に夫人の顔色を伺っているように見えるのだ。

これを見た時、ニンゲンとイヌの関係を思わずにいられないね。
この哺乳類の「表情」をいうのは多少の差こそあれど、「感情」という出どころが同じならそんなには変わらないのではないかと思うのだ。

動物では「笑い」が「威嚇」だというけれど、ニンゲンでも「威嚇」的な「笑い」は存在するし、感じ取れるだろう。
イヌは賢いし、よく適応しているゆえ、飼い主の表情を読み、飼い主の表情をまねるだろう、人間の子供が親の表情を真似るように。
だからか、「威嚇的な笑い」(歯を剥く)だけじゃなく、「好意的な笑い」もあるように思う、それにこの二つの笑いは人間様もお気づきのように「目」が違う、ただ、サルによくある恐怖からの「卑屈な笑い」はイヌにはないように思う。
「好意的な笑い」とは目や顔の筋肉の緊張の緩みから「この生き物は自分に好意がある」と「感じる」んだろうね。

コールター夫人も笑う、けれど女優の上手さに脱帽、「好意的な笑い」が皆無なのだ。全て緊張を孕んだ「威嚇的な笑い」または「誘惑的(操作する)な笑い」だ、そうした「笑い」に「弱い者」は屈してゆく。
「魂」である金色のサルは全て気づいている、ゆえにサルは怯えているのだ。
肉体と魂の「分離」に。


「魂」とはなんだろう?
「魂」がなくては生きられないという。
「魂」は人によって違う形をしているだろう。
ぼくの「魂」はなんであろう?
ぼくは、ぼくと「魂」を、コールター夫人とサルのような関係にしたくない。
「魂」を慮り、「魂」を愉しませたい。
永遠ではないぼくの「肉体」と、永遠ではないぼくの「魂」が共に在る限られた時間を大切にしたいよ。

映画にもなったこの児童文学は宗教的に不適切とかなんとかで、アメリカでは大問題になったらしいけどそんなに激怒するほど刺激的だったんだろうね。
宗教批判。いいじゃないか、皆、信じたいものを心ゆくまで信じたらいいじゃないか、ダイモンでもデーモンでも自分にとって大切な者であるのならそいつと共に生きるがいいさ。


Daemonと離れて、Dasmanになるのならそれもいい。
でも、ぼくはまだDaemonと離れたくないんだ。