ともだちという価値観
保育園というのは、子どもがはじめて「ともだち」を作って、人間社会で生きる為に大切な場所なのだそうだ。
4歳頃に父の赴任先は外国となり、家族で国外生活をはじめることとなった。
外国での成長体験というのは、それだけ聞けば羨ましいとか思われるのかもしれない。
でもそこにいる子どもは、親の都合で言葉の通じない土地に来て、短ければ1~2週間で出会って別れる。どんなに長くても1年くらいで別れる「ともだち」で、卒園式には私の「ともだち」はほとんどいなかった。
『その場しのぎでも遊べる子がいるのが嬉しい』
他の子もそういう風に考えてる子も多かったと思うから、誰でもいいから遊んでいた。
保育園の中の先生とは、日本語で話せる。
でも、保育園バスの乗務員さんや運転手さんには日本語は一切通じない。
1歩家の外に出るのも、子どもは大人同伴でないと罰せられるような人さらいの出る土地だから、家の中で遊ぶしかない。
ご近所さんに日本語を話せる人なんていない。
出会ってなんとなく遊べるなら「ともだち」
そんなわたしの常識は日本に帰ってきてひっくり返った。
小学校の入学式をした後、みんな笑顔で「これからも一緒だね」とグループを作っていく。
それは、日本の保育園でずっと一緒に過ごしてきた「ともだち」がいる子達だった。
親の急な都合でいつの間にか居なくなる「ともだち」が当たり前の自分には、奇妙にも感じた。
でも、「これからもずっとともだちだよ」が普通に生きてきたクラスの子達の当たり前からすると、顔も名前もあまり覚えずにとりあえずその場その場にいる子と仲良くしようとする私は、『八方美人』とか『いい子ぶってる』ようで腹が立ち、すごく奇妙な人間に見えていたみたいだ。孤立までそう時間はかからなかった。
「ともだちだから特別に親密になりたい」
「気が合うからずっとずっと長くともだちでいたい」
どれも、全然間違っていない価値観だと思う。
私が、いつか突然いなくなるかもしれないのが「ともだち」だという経験が多すぎて多くの人とは違う「ともだち感覚」を持っているだけで。
それでも私は、その場1度きりでも仲良くするのは大切で、「ともだち」がどこかで元気にしてれば、またいつか会えれば充分だ、という価値観も理解されにくいけれど自分の価値観を今でも嫌ってはいない。
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