ユニマットライフの紙コップ
ただの印象なのだが、ユニマットライフのロゴが好きだ。
知っているだろうか、ユニマットライフ。
私も名前即イメージに繋がるとは思っていない。
スターバックス=セイレーンのロゴ
桑野信義=セカンドバッグ
カルロス・ゴーン=コントラバス
のような強固なブランドイメージが確立しているとは思わない。
思わないが、少し調べて欲しい。
「あー、なんか信号待ちしてる車のドアに載ってたな」とか思うのではないか。
人によっては憂鬱な気分になるかもしれない。進んでいるのか分からない会議のあいだに、このロゴがプリントされた紙コップをどれほど見つめたか。
各々の生活で出会って、各々の印象があるだろう。そんな思いは一言にはまとまらない。辛いこともあっただろう、楽しいこともあっただろう。それらは皆等しく過去のものとして消えていってしまったよ。今度ゆっくり飲み明かそうな。
私もユニマットライフのロゴに過去の記憶を見つめている。
私は90年代生まれなのでユニマットライフのロゴに90年代の印象を嗅ぎつけるのだ。
そう言われると90年代ちっくなロゴをしていると思わないだろうか。
木に虹がかかっている。ただそれだけなのだが、まず色調が良い。
赤というよりは濃い目のピンク、青というよりはソーダ色、あとただの黄色。
あの虹がよく分からない樹(「木」というより「樹」)にかかっている。
全く状況が分からない。
爽やかな色調と構図は共に意味を欠いており、記号的に消費される。と、批評っぽく言ってみたが、それに加えて「紙コップ」にプリントされているのが良いのだ。
子供の頃にはじめて会った紙コップと苦楽を共にし、高熱を出した紙コップを土砂降りのなか病院まで運んだ、今でも気心のしれたパートナーは紙コップです、なんて人はないだろう。サトシとピカチュウの親密性は紙コップとの間には存在しえない。
多くの人は出会って数時間も経たずに捨てる。人によっては数十分。いちいちコーヒーを飲むのにロゴなんてみない。クリームを混ぜる時、こぼさないように飲み口周りを見るくらいだ。
出会って、味わい尽くし、味を占めた彼は捨ててすぐに、別のコップに行ってしまう、捨てられた紙コップなんて見向きもせずに。きっと彼は最初に捨てた紙コップと同じようにいくつもの紙コップたちを見向きもせずに捨ててゆくのだろう。考えてみれば、人はいともたやすく紙コップを捨てる。紙コップには中島みゆき「わかれうた」が意外にも似合う。
瞬間的に消費されて捨てられる紙コップに、意味のない爽やかなロゴ。どうも私の90年代イメージはこんな感じなのだ。意味や、意味を作り出す文脈を欠いたイメージのロゴが持つ人工性と瞬間消費される紙コップ。90年代の華やかな停滞と退廃と郷愁を抱かずにユニマットライフの紙コップを見れないのだ。
無意味に爽やかな印象を与える機能を持つロゴに、眠気ざましのカフェイン汁のような美味しくもないオフィスコーヒーを満たした紙コップ。「機能は果たすが意味はない」ということだ。つまり、「コイツと同じ働きをするヤツはゴマンといるから、コイツでなきゃいけない意味は無い」という印象は私に90年代、西新宿のオフィスの会議室の窓に広がる都会に落ちてゆく夕日の風景を幻視させる。物質的な豊かさはバブル期からの遺産で残ってはいるが不景気の様相が否めない。
そんな印象をユニマットライフの紙コップはもたらすのだ。
意味もない爽やかさに対して、意味もなければ爽やかさもない=何も無いのはストロングゼロの空き缶であろうか。文字通り、中身無いもんな。
おそらく、ユニマットライフの紙コップはわたせせいぞうのイラストに近いのだと思う。ものすごく都会的で、洒脱で、汚いものが微塵もない。だからこそ妙にリアリティがないためにファンシーな印象がある。都会的にファンタジックなのである。
ちなみにこの調子で、お洒落な観念を抽象的な英語句で表現し続けると、「アーバンに見つけたファンタジー」のような感じにどんどんカタカナになり、マンションポエムみたいになる。