つれづれなる恋バナ 序章【歴史長編恋愛小説】
序章
なんと。「令和」なる世に生きる諸君の中には、硯よりも小さな、鉄のような素材でできた札でこれを読んでいるというのか。
和紙に文字をぎっしりとしたためた書物がその札の中に含まれている、と言われても、何のことだか私にはさっぱり分からない。その大きさときたら、縦は五寸(約十五センチ)、横は三寸(約九センチ)にも満たないというではないか。手のひらに収まるほどの極小の物体に、古今東西のありとあらゆる情報が網羅されているとは、まったくもって信じがたい。
目の前の古びた文机の上に、我が半生をかけて書き上げてきた『徒然草』の冊子が積み上げられている。運ぶのに一苦労するほどの重さがあるこの膨大な書物が、諸君の手のひらに乗った鉄の札にすっぽり入るとは。その姿を私はどれだけ想像力を駆使しても思い浮かべることはできない。
さらに、私が声に出した言の葉でさえ、一字一句逃さず正確に浮かび上がらせることができるという。私はただただ驚愕するばかりだ。なんという優れた文明の利器であろうか。諸君が生活を営む令和の世の中とは、人間社会の進歩が究極にまで達し、物質の高度な発展を謳歌する夢の楽園のように思えて仕方がない。羨望の念がこみ上げるばかりだ。
私の名は卜部兼好(うらべのかねよし)という。今生きている世は、暦応 五年(一三四二)の正月であり、ちょうど六〇歳の還暦を迎えたところだ。現在は出家の身で、世間では「兼好法師(けんこうほうし)」の名で通っている。諸君らの世では、私は「吉田兼好」として知られていると聞いた。それは後年、吉田神社神官に就いた卜部氏の子孫が吉田姓を名乗ったからであり、私自身は吉田を冠したことは一度もない。
今年は暦応五年といったが、実は我々の世ではもうひとつの元号が存在する。それは「興国」といい、今年は興国三年でもある。不思議に思った者もいるだろう。現在、年号を発布する朝廷は二つ存在する。私が住む京の都に加え、大和国の吉野にもうひとつの都が存在し、二人の今上帝がおわすのだ。私はこの特殊な時代が後世においてどう語られるか気になっていたが、どうやら「南北朝時代」と呼ばれるらしいのが分かった。いつぞやからか年号はひとつとなり、令和に至るまで連綿と続いて来たのであれば、私は胸をなでおろすほかない。二つの朝廷は統合され、時の荒波を乗り越え歴史を紡ぎ、現在から六八〇年ほどを経た諸君の世でも我が日本国は帝を戴いていることになる。ご皇室が弥栄であることは、とても喜ばしいものである。
それはさておき、硯より小さな鉄の札とやらには興味が尽きない。
鉄の札は、書物を収蔵するのみならず、文字を記すこともできるそうではないか。それも筆を使わず、墨汁を浸すこともなく、指で札の表面を軽く押すだけで文章を書くとは、まるで妖術ではないか。さらに指先一つで、日々の思いをしなやかに綴っているという。
どうやら、私が長年やって来たことと同じことを、諸君もやっているみたいだ。
私は『徒然草』の冒頭の段で、このように書いた。「硯」を「鉄の札」に置き換えると、諸君の時代でも多くの人が全く同じ体験をしているようである。私は仕事を持たぬ暇人だから一日中書いているだけだ。だが諸君の中には、日々忙しく働いているにも関わらず、鉄の札を肌身離さず携帯する者が相当数いるというではないか。
職務の最中にもこっそり鉄の札を覗き、指を軽く押すだけで文字を創出し、自らの思いを自由気ままに綴っている。そして書き上げた落書を、札の中に現れる巨大な壁のようなものに貼り付けて衆目に晒している。その内容は為政者たちへの批判から、世間に流布する噂話、高貴な者たちの醜聞、職場や学び場での何気ない出来事、親やきょうあい、夫や妻への愚痴など、多岐に及ぶという。
それらは私が長年、つれづれなるままに胸の内に去来するものを書き溜めてきたことと、大差ないように思える。時間を浪費しながらだらだらと書きなぐって頭がおかしくなる感覚を、私と同様諸君らも味わっているのではないか。それに、落書壁の前に入り浸り己だけでなく他人の手記まで長時間眺め続けるとは、これいかに。落書の中には心ときめかせるものばかりとは限らず、胸を痛めんばかりの駄文拙文悪文乱文迷文も目に入るはずだ。頭がおかしくなるどころか、五臓六腑、特に心の臓を患うことになりはしないか?私は甚だ心配である。
誰もかれも、自らの思いを表明して世に知らしめたい欲望を抱いている。私の世でも、遠い未来の諸君の世でもなんら変わりのないことであるようだ。
そして私はもうひとつ、とても興味深いことを耳にした。それは鉄の札を介して、思い人に文を送りあうことが日常化しているということだ。遠くにいながらも恋心を伝えたいという気持ちは、いつの世も同じのようであるな。また羨ましいことに、愛しき人に心を寄せ思いの丈を綴った恋文が、瞬時にして相手の所有する鉄の札に届けられるそうではないか。いかなるからくりなのか全く想像できないが、手紙が思い人のもとに無事にたどり着くかすら不確実な時代を生きる私にとって、諸君たちの恋愛というものはとても容易いことのように思えて仕方がない。
だが、現実はそうとは言い難いようである。諸君の多くが、一瞬で文が届くことがかえって恋煩いを増幅させるという皮肉を味わっているというではないか。自らの意思が瞬時に伝わるゆえに、相手からの意思も瞬時に受け取りたいとの心理に苛まれるそうな。諸君の時代の恋人たちは、「待つ」ことが苦痛となっているようだ。
我々の世では個人に差はあれど、一日二日は言うに及ばず、ひと月でも半年でも一年でも思い人からの便りを待ち続けられる人がいる。ところが諸君の世では、一日どころか半刻(一時間)すら待てず心を苦しむ者が後を絶たないという。待てぬゆえに、相手が返信を送る前に怒りの文を畳み込んで自滅する者すらいるのだとか。哀れな限りである。
また、鉄の札の驚異の技として、相手が文を一読したかどうかを、「既読」と称して知らせてくれるそうではないか。なんたる便利さよ。それゆえに、真心こめて書き上げた恋文が無情にも相手の目に届かず放置されるか、もしくは破棄されるという厳しい現実を突き付けられることになる。なんとも残酷な副産物を生んだものである。道具の進歩は、必ずしも人の心を満たすばかりではなく、何気に心に傷をつけてしまうこともあるようだ。
そして、恋のすれ違いは時を越えた普遍の現象らしい。
いくら手紙に気持ちを託しても、切なる思いが相手にそのまま受け入れられるとは限らない。むしろ文面の意味を誤って理解されることもある。さらには恋心が完全に空回りし、その内容を嘲笑されてしまうこともある。または、重すぎる恋心が逆に相手に怒りや嫌悪感を沸き立たせ、やんごとなき事態を招いてしまうこともある。愛しさ余って憎さ百倍、力をふるって相手に害を与える不埒者が現れることもある。私が伝え聞く限り、諸君の世で展開される恋のもどかしさは、我々の時代と何ら変わりはない。
そんな、未来に生きる諸君らのいとしくも儚い恋模様に思いを致すとき、過ぎ去りし遠い昔のあの頃を回想せざるにはいられない。私にも諸君のように、恋という形なきものに夢中になった青春の日々があった。俗世を離れ還暦まで年を重ねたひとりの坊主にも、ある人を思い焦がれ、その小さくて純朴な心を両腕に抱いて我がものにしたいと夢想した時代がたしかにあった。
あの忘れじのひと時は、すぐに瞼に浮かび、鮮明な映像としてよみがえってくる。
これからしばらく、その映像を眺めてみようと思う。令和の世の諸君も、私、卜部兼好の若かりし日の恋を、私とともに見届けてみてはいかがだろうか。しがない一人の老人の単なる思い出話と片付けようが、諸君の時代にも通じる恋愛の奥ゆかしさを見出そうが、私の恋の話をどう捉えるかは君たちの自由である。
元来、恋とは自由である。自由であるからこそ恋は育まれ、成就し、もしくは破れる。人が人を好きになることは、誰しもに与えられた自由であり、永遠なる煌めきを発する心の息吹である。自由であればこそ、運命は誰も予想できない結末へと導いていく。
そうやって生身の人間同士の恋愛は、波乱万丈を含んだ物語として歴史に刻まれる。では、ご覧いただくとしよう。令和の世からさかのぼること七百年以上前の、恋という広く深い海に溺れた一人の男の物語に、何かを感じていただければ幸いだ。
各章リンク
全記事URL
序章
https://note.com/hano_write/n/nfe19eb480608
第一章 出会い
https://note.com/hano_write/n/n17be5c4ef7ed
第二章 笑顔と涙と
https://note.com/hano_write/n/n44b773fefbaa
第三章 秘めたる思い
https://note.com/hano_write/n/n2cca8a0f61ce
第四章 月夜に君は
https://note.com/hano_write/n/n4fd3badb93ec
第五章 未来をともに
https://note.com/hano_write/n/n01965084d3af
第六章 移りゆく季節
https://note.com/hano_write/n/ndd904794741f
第七章 まことの心
https://note.com/hano_write/n/n669bfda7a043
第八章 旅立ちの橋
https://note.com/hano_write/n/ndcae5058c286
第九章 いつでも微笑みを
https://note.com/hano_write/n/n6571ce11dc25
終章
https://note.com/hano_write/n/n48bc3e215df4