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この部屋で君と

木で出来たセピア色のドアを押して開く。カランカラン、とぶら下がった鐘が鳴った。

いらっしゃい、という気さくな挨拶をしてゆったりと笑うマスター。

カウンターに座ってジントニックを頼む。

「久しぶりですね。忙しかったんで?」
「いやあ、学生に忙しいなんてことはありはしませんて。ここ最近はずっと何も無かったってだけですよ」

そうですか、とまたゆったり笑う。

「じゃあ、今日は何か話したいことができたから来たってわけですか?」

コルクのコースターの上にジントニックを乗せて、ナッツの盛り合わせと一緒に私の前に置きながら、マスターは尋ねてきた。

「別段そういうわけではないんです。話したいことができたというよりかは、ちょっとした出来事がありまして、必要に駆られてここに来たというわけなのです」
「必要に駆られて、ですか」
「必要に駆られて、ですね」

自然と私は笑ってしまった。自分でも不思議な気がしたのだ。

「最近、幽霊が家に住んでいるんです」
「幽霊ですか」
「幽霊ですね」

マスターは、この前彼女にふられたことを話した時と変わらない反応だった。

「その幽霊は女性なんですが、誰なのかわからないのです。しかし、全くの他人とは思えないのです。けれど、どれだけ考えてもそれが誰なのかわからないのです」

ナッツの入った小皿から、カシューナッツを手に取って、くるくると手の中で転がす。

「彼女がいることで、私の生活は変わってしまいました。夜寝るときは彼女がぼやっと光るので、明るい場所でも寝られるようになりましたし、彼女は基本的に浮いているので、人と話す時は上を向く癖がつきました」
「なんとも興味深い変化だ」
「こんな経験をした人、めったにいないでしょうからね、こんな生活の変化をした人も、めったにいないでしょう」

口に投げ込むようにしてカシューナッツを食べる。

「けれど、一番大きな変化っていうのは、意外と身近なものだったんです」
「往々にして、そういうものですね」

グラスを手に取って、そっと口をつける。なんとも甘美な苦みが、口の中にこっそりと広がった。

「その変化とは、なんですか?」
「それはですね」

また一口、ジントニックを飲む。自然と笑みが零れた。

「家の中で、人と会話することです」

マスターは、ああ、と合点がいったというように頷いた。

「何年も一人暮らしをしていると、会話は外でするものという固定観念が生まれてしまいますね。始めはどうも居心地が悪かった」

そうかもしれません、と言うマスターの左手薬指には、プラチナのリングがきらりと光っていた。

「気を張らない会話というものができるようになるまで、一週間はかかりました。しかし、その後はとても楽ですね」
「幽霊と、何でも話せる気の置けない仲になったと」
「そこまで親しくしているつもりもないですが、何でも話してしまうのは確かです。彼女は誰にも言いふらしませんから」

カランカラン、と鐘が鳴って新たなゲストが来た。マスターはいらっしゃい、と私の時と何も変わらない対応で、カウンターにその人を通した。

「そんな存在がいたら、わざわざバーのマスターと話そうなんて、思いませんものね」
「そんなことはありません。彼女は私の話を聞くばかりですから」

安心しました、と笑い、三つ奥の席に座ったゲストの注文をとるマスター。

「そんな彼女が、今日はどうしてか、いないのです。学校から帰ってきたら、どこを探しても見当たらなくなっていたのです」

お隣のゲストのモスコー・ミュールを作りながら、マスターは、そうなんですか、と呟いた。

「食事を摂った後、久しぶりに本を読みました。ミステリーです。それで、私は部屋にぽつんとしていることに気付いたんです」
「ぽつんと、ですか」
「ぽつんと、ですね」

マスターはモスコー・ミュールをお隣に出した後、また私のすぐ前まで戻ってきた。

「そして、ここに来たわけなのです」

ふむ、と唸った後、小さく笑うマスター。

「その幽霊の存在が、お店に来なかった原因ですか。商売敵が幽霊とは、不思議な仕事だ」
「すいません」

穴を埋めるようにグラスを傾けて、ギムレットを頼んだ。

「彼女はもう戻ってこないんだと思うんです。それは直感なのですが」
「では、これきりだと」
「そうですね」

アーモンドを口に運んで、がり、と噛む。独特の香ばしい匂いが鼻に抜ける。

「彼女は、何がしたかったんでしょう」

出てきたギムレットに、すぐに手を伸ばして飲む。

「それは、その幽霊にしか分かりませんね」

それもそうだ、と私は応える。

「しかし、私が思う所では、彼女はあなたのどこかに傷痕を残そうとしたのではないですか」
「傷痕ですか」
「傷痕ですね」

クルミを口に入れて咀嚼する。あの、歯に引っかかる感触がする。

「人を変えるというのは容易ではありません。会ったばかりの人であればなおさら。それこそ、幽霊になって毎日を過ごすぐらいの荒業でないと」

マスターは少しおかしそうに笑う。

「あなたは彼女によって、確かに変わった。その変化が、彼女のこの世に残した傷痕にもなった、ということなんでしょうかね」

すいません、と隣のゲストがマスターを呼ぶ。なんでしょう、と言いながらマスターはそちらに向かって行った。

「傷痕、ね......」

彼女の喪失のせいで、私はこのバーに来た。それは確かに、傷痕を癒すかの如き行為だった。

彼女は私に、あるいはこの世界に、傷痕を遺すことで、何か大切なものを得たんだろうか。

テーブルに落ちる、丸い光を見つめ、そっとギムレットに口を付けた。

「すいません」

マスターが私に声を掛けてきた。

「こちらの方が」

そう言ってマスターの促した先、三つ奥の席に座ったゲストは、続け様にこう言った。

「はじめまして」

見慣れた顔が、笑っていた。


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この短編小説は同名の作品『この部屋で君と』という短編集を読んで、自分ならば“二人暮らし”を題材に、どんなものを書くのかという試みを軽い気持ちでカタチにしたものです。

#小説 #短編小説 #バー #幽霊




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