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想像力を超えろ

最近、あるアニメを思い出した。タイトルは『電脳コイル』。これは私が小学生だったころにNHKで放映されていたアニメで、電脳メガネと呼ばれるウェアラブルコンピュータが発明された世界を描く、近未来SFだ。

これからこのアニメの面白さについて延々と話すかというとそういうわけでもない。

なぜなら、私がこのアニメを見ていないからである。

私の親はなかなかに厳しい人で、小学生の頃はまともにアニメなんぞは見れなかった。(その抑圧されていた好奇心が爆発し、後にオタクへの道をひた走ることとなる)

そのため、私はテレビのチャンネルを変える時に一瞬だけ映る、このアニメのワンシーンだけを見ていたに過ぎない。

しかし不思議なことに、そのシーン1つ1つを、私は克明に覚えているのだ。

電脳メガネで調べ物をする少女。手を電話の形にして耳にあて、電話を掛ける女性。マトリョーシカのような姿をしたロボット。空間に穴が開いて見える黒い影。

その全てのシーンが、どんな場面なのか私には全くわからない。だから、想像する。

あのシーンはこんな状況だったんじゃないか。あの女性はこんな会話をしてたんじゃないか。

そうやって色んな想像を繰り返すうちに、私の中で、自分版『電脳コイル』とでも言うべきモノが出来上がり、そして自己完結してしまったのである。

完結したのは私が高校3年の頃。すべてのつじつまが合って、了の文字が私の頭にでかでかと浮かんだのを覚えている。

しかもすごい面白い話になった気がする。設定だけでこんなに面白いとは何事か。これをたくさんの大人が集まってああだこうだ話し合って、絵を付けて、声が入って、キャラクターが動く?

私はこの作品を見るのが怖かった。この作品を見たら、自分の才能の無さを痛感して、何一つとして創作できなくなってしまうんじゃないだろうか。

自分版『電脳コイル』が完結した当時、私は他人の才能に怯えていた。加えて傷つくのを極度に恐れていた。

今でも他人の才能は怖い。美しい文章に心をめちゃくちゃにされたことは山ほどあるし、素晴らしいストーリーに悔し涙を飲んだ回数は数え切れない。

でも、傷つくことには慣れた気がする。今の自分に才能がないことを受け入れて、他人の才能にずたぼろにされることに慣れた。

話を戻そう。『電脳コイル』まで。

最近このアニメを思い出したのには、理由があった。

あと少しで、初めて自分の作品ができるのだ。

それは拙くて、自分で読んでも泣くほどつまらなくて、これが大衆の目に触れることは多分ない。

それでも、1つの作品ができた。

この作品ができた瞬間に思ったのだ。『電脳コイル』を見ようと。

私は傷つきながらも、創作ができる。それがわかったから、私は『電脳コイル』を見ようと。

それに今の私は、自分の才能と向き合わなくてはならない。これから私の手から離れる、“彼ら”のために。

この作品が書き終わったら、『電脳コイル』を見よう。

そして、心をめちゃくちゃにされて悔し涙を流そう。

どうか、私の想像力を超えていますように。

#エッセイ #思ったことを綴る


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