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夜の病院

その日はいつもより少しはやく家に帰って、夕飯をつくろうと決めていた。

にんじんが3本くらい余っていたから、きんぴらで消費しようと細切りに。
にんじんって固くて切りづらいし、単体だとボリュームはないし。
主役にするには微妙だなと思いながらも、もうこれからスーパーに行く気分でもなくて、とりあえず切る。

切る。

切る。

切る。



あ。


まな板がぐらついて、左手の親指に当たった。
つー..と赤い血が流れた。

一瞬、うまく焦点が合わなくて、ぼーっとする。

あわてて水道で洗い流す。
傷口がうまく見えなくて、血が止まらない。

やってしまったかもしれない。

そう思って、キッチンペーパーで傷口をおさえて、手を上にあげた。

少しパニックになって、ベッドに腰掛けて一息ついた。

左手をぎゅっとして、右手で携帯をいじる。
病院を検索しながら、これは、病院に行くほどなのか?そうでもないのか?
不安になって、思わず母親に電話した。

この歳にもなって親に甘えてるなんて、だいぶ恥ずかしい。
でも、こういうときの母親の一言はすごい。
「行きなさい」の言葉には何の迷いもなくて、電話を切って、冷静に、また近所の病院を探した。

夜 7時20分。
幸いまだやっている病院が近くにあった。病院のホームページはなくて、どうやら診療所のようなこじんまりしたところらしい。

念のため、電話をかける。
「あの、指を切ってしまって、ちょっと診てもらいたい、と思っているんですが、まだ、この時間でも、大丈夫ですか?」
できるだけ冷静になるように、言葉を区切って話した。

「はい、はい。えーと、うちは7時45分が最終受付ですけど、それまでに来られそうです?」
「はい、10分くらいで行けると思います」
電話口からは、マニュアルの敬語じゃない年配の女性の声。少しほっとして、病院へと向かった。

タイミング悪く、携帯の電池はあと10%。

はじめての病院の場所を調べながら、歩いたことのない道を行く。
こんなことでもないと、この道を歩くことはなかった。

人気のない住宅街に入ると、細い路地が続いている。昔からあるような古びた商店から白い明かりが漏れている。
ギラギラした看板と高層ビルが立ち並ぶ場所で、ひっそりと息継ぎしている街の空気孔のよう。

携帯のマップを頼りに歩く。路地がいくつも枝分かれしていて、右折するのがどの道なのかもよくわからない。
案の定、途中で携帯の電池は切れた。

もう10%を使い切ったなんて、絶対うそだと思いつつ、仕方がないので、勘を頼りにさっき見た地図のイメージで歩いてみる。
少し行くと、病院の名前と矢印だけの簡素な看板に出会った。助かった。

次はどこかでまた右に曲がるはず..そう思ってキョロキョロしながら歩くと、またさっきと同じ看板がでてきた。ちゃんと角で曲がれるように、一か所の塀の角に、それぞれの方向を向いた看板が3つも付いていた。

うん、うん。
おかげさまで辿り着けそうです。
心の中で頷きながらも、その過剰な丁寧さに少し笑ってしまいそうになる。
角を曲がってすぐのところに、年季の入った玄関灯が、真っ暗な細い道を照らしていた。


扉を開けると、思ったより重くて引っ張られる感じがした。
中に入って手を離すと、すぐにバタンと閉まった。

こじんまりとした待合室。
1人のマスクをした女性がソファに座っていた。

受付にいたおばちゃんがこっちをのぞいた。

「さっきの電話のひと?」
「あ、はい、そうです」
「はいはい、ちょっと座って待っててね。あ、保険証、ある?」
保険証を出して、ソファに座る。

「名前、これ、なんて読むの?」
「あー、読めないですよね。笑」

そんなたわいもない会話が、さっきまでの緊張を急に和らいでくれた。

診察室に入ると、サバサバとした大きなお母さん、といった感じの先生。
「はいはい、どうしたどうしたー」
小さい子の転んで擦りむいた膝を手当てするように、私の親指を覗き込む。

「あー..これやっちゃったかもねー。縫わなくて良ければいいなーと思ってたんだけどっ!」
スキップみたいに跳ねる彼女の口調に、なんだか私も楽しげな気持ちになってしまって、親指の傷口からだらだら出てくる血なんて嘘みたいだった。

傷口ギリギリのところで麻酔の注射。これが一番痛い、ってことを私は知っている。そう、知っていた。
ちょうど2年前の今頃にも、同じように指をざくっと切ったのを思い出した。あの時はもう深夜だったから病院に行くのを諦めて、指をぐるぐる巻きにして寝たけど、起きたらちょっと貧血で気持ち悪かったのを覚えてる。
引っ越しの節目の儀式みたいに、また指を切っている自分が可笑しかった。

「何切ってたのー?もうーこんなざっくりやっちゃって。」
「いやーあのーにんじんを...ひたすら切ってました笑」
「えー気をつけなきゃー」
そんな会話をしながら、ちょっと楽し気に手際よく縫っていく。
痛みはないのに、糸に引っ張られる感覚だけが伝わって、体の中のブレーカーが一箇所だけ切られているような、変な感じがした。

「毎日この時間までやってるんですか?」
経過を見せに来る日にちを相談しながら、何気なく聞いた。
「うちは、いつも18:00-20:00でやってるの。もう50年も。でも地元密着型だから、緊急だったら夜中でも見るけどね。」
そう言う彼女の横顔は、少し得意気に見えた。

そうこうしているうちに、あっという間に処置は終わって、包帯でぐるぐる巻きにした親指ができた。

この時間にケガをしていなかったら、きっとこの病院には来ていなかっただろう。もうすぐこの場所も引っ越して離れようとしている私が、今日この時間にケガをしたのも、何かの縁なのかもしれない。そう思うと、少し名残惜しかった。ケガは痛いけど、そう悪いものじゃない。

病院を出て、玄関の明かりに見送られて、しばらく歩くと大通り。
高層ビルに見下ろされ、タクシーが飛ばしていく。
この少しの時間だけ、どこかぽっかりと違う場所に行っていたような気がして、思わず親指の包帯を触った。

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