今日の屋上 #2
幼いころ、実家の屋上には温室があって、祖父が胡蝶蘭を育てていた。
両親や祖母はめったに上がってこなかったけれど、私は屋上に出る重い扉をこっそり開けて、よく温室を覗きに行った。
外から見るとただの透明な部屋なのに、中に入ると、むわっと暑い湿気に襲われる。肌にはすぐに水滴がこびりついてきて、自分の体がこの小さな空間に飲み込まれて溶けていくような気がした。
庭とも家の中とも違う温室の匂いは、それまでどこで嗅いだものより生々しく、幼いながらに植物の息遣いを肌で感じていたのを覚えている。
家には一緒に育った猫もいたけれど、そんなに優しい温かさじゃなくて、もっとどろどろした塊のようなものがそこには眠っていた。
蘭が成長していくたびに祖父は嬉しそうだったけれど、私にはそのけばけばしさがうるさすぎて、どこか怖くて、蘭のことはまったく好きになれなかった。怖いもの見たさもありながら、自分とは違う生きものの棲家にこっそり忍び込む感覚。
いつのまにか温室は中止になって、ただの倉庫になった。あそこを維持をするための光熱費も、今となっては想像することができるけれど。
秘密基地を奪われて、ぽっかり穴が空いたような気持ちだった。
湿気のない生きもののいない温室は、壁に区切られた、ただの箱。
それでも屋上にはときどき上がっていて、高校生くらいになると、それは大抵いつも深夜だった。屋上は、当時の生活サイクルの中で、夜を味わえる唯一の場所だったのかもれない。
あの暗闇に包まれる感覚は、温室の湿気に触れたときと、どこか似ている。
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このエッセイは、5/22(日)に行われる【七輪の会 たなびくもの】のために書かれたものです。
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