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お風呂の扉

この部屋のお風呂の扉が閉まっているのを、
私は見たことがない。

きーっと音のする分厚い玄関を開けると、
やっぱりそこには、古い木造の味と
日本の夏の匂いが入り混じっていて、
私がこの家を空けていた時間の分だけ
ずっしりと重たい空気が詰め込まれていた。

毎年、7月になると仕事で京都に行く。
3年目になった今年は
それもすっかり恒例行事になってしまって、
出かける前は、1か月近く家を開けるのかあ、
大丈夫かなあ、なんて言いながら
それっぽく振る舞っていたけれど、
正直のところ
昨年までと何か違うのは薄々感じていた。

この2年で感じてきたあれこれの中で
この2年で得たたくさんのことと、
この2年で失ったたくさんのこと、

2年前、四条烏丸の交差点で
必死で道の名前を追いかけていた私と、
上がるとか下がるとか言いながら
すたすた歩いていく今の私とが、
どこかですれ違ったような気がして、
でもとても遠くにいるようで、
一度目を離したら
もう会えないような気がして、
顔を合わせても
もう気づけないような気がして、

ふと、立ち止まってみたけれど、
その後ろ姿も、うまく思い出せない。

3週間ぶり、
重いスーツケースを持って降りた渋谷駅は
タバコの臭いがして、夜が明るかった。

電車を降りて、駅からの帰り道、
ガラガラとスーツケースを引きずって歩く
その道のりはすごく遠くて、遠くて、
このままだと、いつまでたっても
家にたどり着けないような気もした。

久々のこの家、
やっぱり人が住んでいない家の空気は重い。
足を踏み入れるのも
どこか憚られるものがあったけれど、
今の私が、ただいま、と言えるのは
そんな空気を充満させたこの家なのだった。

溢れ出る東京の汗を洗い流したくて
一気にシャワーを浴びる。
ふぅ、と一息、お風呂をあがって扉を閉めた。

あ、この、ザラザラとした、扉。
この部屋のお風呂の扉が閉まっているのを、
私は見たことがない。そう、気づいた。

たしか、2回くらいだけ、
友達が泊まった日にはお風呂を使ってたけれど、
このドアの向こうで
誰かのシャワーの音を聞いたことはなかった。

お風呂上がり、
この家ではすぐに髪を乾かすのが
習慣だったはずなのに、
いつの間にかそんな季節はとうに過ぎている。

扇風機を強にして、顔から風を浴びる。
こうしてると、そのうちこの長い髪も
自然に乾いてくるのをようやく最近知った。

この風は、独り占めだ。
弱めても、強めてもいい、好きにしていい。
扇風機の風を取り合うこともない。
そう、取り合うこともない。

#エッセイ #京都 #東京 #お風呂 #扇風機 #夏

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