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たこ公園

久々に東京に帰った。
新宿に到着するバスから見えるのは、高層ビルと人、人。しばらく自然に囲まれた人の少ない場所で暮らしていたから少し疲れてしまうかなと思っていたけれど、不思議とそんなことはなかった。

山々の連なりが空の形をつくる風景があったように、ここにはまたこういう風景がある。それはどちらがいいとか悪いとかではなくて、それぞれの土地の生き方なのだということが、こうして行き来を繰り返すうちに私の当たり前になってきた。

帰り道のその足で、先輩の展示を見に恵比寿へ行く。
何度か行ったことのある場所へ、何度か通ったことのある道を、Googlemapを片手にながめながら行く。
知らない場所を車で進む生活の中では、東京で過ごしていたとき以上にこうやって手の内の塊に頼る習慣が染み付いていたことに気づく。

横に目をやると長細い公園があって、幼稚園くらいの女の子がブランコに乗っていた。お父さんがその背中を押している。

こんなところに公園なんてあったっけ、そう思って手元を見ると、そこは「たこ公園」だった。

なんでたこ公園なのか。気になって、帰り道も同じ道を戻る。
すると、さっきは見えなかった公園の入り口の端に、たこのすべり台があった。確かにここはたこ公園だった。

にょきっと生えて地面に広がるその形に、なぜだか会津に向かう夕暮れの高速で見た、磐梯山のシルエットを思い出す。

写真を見比べればまったく別もののそれが、私の吸い込んだイメージの中でスケールを変えて形を変えて、山はたこになり、たこは山になる。そうして無意識のうちに記憶のスイッチをつくりだしていく。

山と川に囲まれた場所は、そのスケールの大きさで街ができている。ここは山、ここは川、ここは道の駅、ここはホール、ここはホームセンター、ここはスーパー。そうやってそれぞれの役割が決められている。

ここが何をする場所なのか、そう定義することは、自然と人間の住み分けのバランスを保つために重要なことだったのかもしれない。
野生のサルが現れたら、石を投げて、ここは人間のエリアだと教えることも必要なのだ。
実際そのおかげで、私たちはそうした土地に少し足を踏み入れれば、暮らすことの営みの流れを手にとって感じることができる。
地面には土があり、山から川が流れ、空には星があることを嫌というほど確かめるのだ。

東京は、建物という建物、人という人であふれ、地面の下にも空間は広がる。
地面はアスファルトになり、そのアスファルトの下にも地面があって、空は少しずつ小さくなる。どれが本当のものなのか、少しずつわからなくなる。
ただこの場所で歩くためには、この目の前に続く地面のようなものに従っていくことしかできない。

そうやって続く土地の拡大は、ここに集う人たちの数に比例していく。でもきっと人の力にも限りがあって、東京にはたくさんの隙間が影をひそめて散らばっている。
何のための空間なのかわからないような、隙間。それはかつて何か役割を与えられたにも関わらず手放されてしまったものかもしれないし、見える空間を際立たせるために埋もれてしまった空間なのかもしれない。

それぞれにある、それぞれの生き方。
その土地土地のスケールの中でつくられていく営みを認め合いながら、生き方を考えること。

どちらかだけでは見えてこない、この多様な生き方、有り様がひっくるめて必要なのだ。

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