![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/142161548/rectangle_large_type_2_16f3742d430ecc035e94beb1bf697f77.png?width=1200)
ジェンダーから読み解くXG新曲WOKE UP:ポップソングが提示する「ありのままのわたし」の進化
XGの新曲"WOKE UP"が公開された。XGは、「KでもJでもないX-Pop」というコンセプトを具現化するため、既存のものを寄せ集め、それらの文脈を別の何かと接続させるという、ヒップホップな実践している。だから、彼女たちの音楽は、懐かしいのに新しい。今回の新曲は、フックの "woke up looking like this, so don't get under my skin" という歌詞を聞いて、すぐにBeyoncé の ***Flawlessという曲を思い出した。
***Flawlessには、キャッチーな ”I woke up like this”というフレーズがある。直訳すれば、「目覚めたときはこんなかんじ」ということで、寝起きのすっぴんの状態を指すけど、そこから「持って生まれたもの」とか「ありのままのわたし」と意訳できる。個人的に、***Flawlessでビヨンセが提示した「ありのままのわたし」には、問題があるなとずっと思っていたのだけど、それをXGが解決しているように思ったので、この二曲を比べながら、分析してみたいと思う。
2013年という年と***Flawless
本題に入る前に、ビヨンセの***Flawlessについて、少しだけ情報を書いておく。和訳すると「完璧」というタイトルのこの曲がリリースされたのは、2013年の年末。この年の夏に、国連で行われたマララ・ユスフザイのスピーチは、欧米のメディアで大きく取り上げられた。女子教育弾圧に抵抗し、タリバンに銃撃されて死にかけても、「世界中の子供たちに教育を」と訴える16歳の少女の姿は、フェミニズムの機運を高めた。この時のファーストレディはミシェル・オバマで、彼女もまたリベラルなジェンダー観を積極的に発信していた。
一方、ビヨンセは「ザ・ミセス・カーター・ショー」というタイトルのワールドツアーを行い、フェミニストたちから批判された。デスチャ時代からフェミニストを公言し、”Run the World (Girls)"や"If I Were a Boy”のように、男女の非対称なパワーバランスに光を当ててきた彼女が、夫でありヒップホップ界の超大御所Jay-Zの姓をつかって、家父長制にのっとる方法で名乗ったことに、リベラルの女性たちは落胆したのだ。
***Flawlessは、そういった批判や落胆の声を一蹴するような歌になっている。「わたしは彼のかわいい奥さんじゃないのよ、勘違いしないで」みたいな、まぁよくあるかんじの主張から始まるこの歌は、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェというナイジェリア人小説家の"We should be all feminists"(「男も女もフェミニストでなきゃ」)というTEDトークの一部をサンプリング(というかコラージュ?)したことで大きな話題を呼んだ。元植民地出身の有色人種の女性作家の声に、特大のプラットフォームを提供するというのは、グローバルセレブのビヨンセにしかできない社会貢献だ。しかも、アディーチェがフェミニストの定義と必要性をはっきりと述べている箇所を収録した。もうこれは、言い方が悪いが、アホにでもわかるくらい露骨にポリティカリ―コレクトで、「フェミニスト」な歌なのだ。
ビヨンセの***Flawlessは、今のシステムを何一つ疑わない。
さて、ここからが本題。ではフェミニストのビヨンセはこの曲で何を提示したのか。それが”I woke up like this”「これがありのままのわたし」という概念だった。ビヨンセは、アディーチェの声を借りたあと、こう歌っている。
You wake up, flawless, post up, flawless
Ridin' round in it, flawless, flossin' on that, flawless
This diamond, flawless, my diamond, flawless
This rock, flawless, my Roc, flawless
I woke up like this, I woke up like this
We flawless, ladies, tell 'em
[…]
Say, "I look so good tonight" (Right)
God damn, God damn
あなたは目を覚ます、完璧、チルして、完璧
乗り回して、完璧、見せびらかすの、完璧
このダイアモンド、完璧、私のダイアモンド、完璧
この石、完璧、わたしの石、完璧
これがありのままのわたし、これがありのままのわたし
わたしたち完璧、レディーたち、やつらに言ってやりなさい
(中略)
声に出して「今夜のわたしめっちゃ美人」
ヤバい、ヤバい
ここで、「完璧」な「ありのままのわたし」は、ダイアモンドに喩えられている。富の象徴として「ダイアモンド」を見せびらかす(フレックスというらしい)のは、ヒップホップではお約束の挨拶みたいなものだ。(XGもSHOOTING STARで、JURINが"shinin' like canary diamonds"「イエローダイヤモンドみたいに輝いている」と自分たちの事を喩えている)でも、これは歌の構成的に、挨拶がわりのフレックスじゃなくて、ビヨンセの結論だ。彼女の「ありのままのわたし」は、お金持ちで、市場価値が高い人間というわけだ。
さらに、ダイアモンドメタファーに続くのは「今夜のわたしめっちゃ美人」という美醜のはなし。このフレーズを歌うとき、MVのビヨンセは履いていたショートパンツを脱いでいて、Tバッグon網タイツでお尻を振ってこちらを誘惑する。彼女がシスジェンダーのミセス・カーターだということはみんな知ってるわけで、***Flawlessが提示する「めっちゃ美人」とは、「男性から欲望される身体」であることが浮かび上がる。
資本主義のなかでの成功。男性にとって魅力的であること。これって、結局、フェミニストが疑問を投げ続ける、マッチョな価値観なのである。たとえば、ダイアモンドを買えるくらい儲けていることが完璧という資本主義の価値観は、賃金が発生しない家事労働の生産性を認めない。また、視覚芸術が「女を眺めるための装置」になっているという「男性のまなざし」問題が長らく議論されているなかで、ビヨンセは自らの身体を「眺められるオブジェ」として差し出している。
彼女はただ、ダークシャドウでぐるりと目を囲んで、男性と同量のテストステロンを生成できるフリをして、モッシュに参加しているだけだ。女性の「強さ」とはすなわち、男性的な要素をもつことなのだと言わんばかりに。ビヨンセが切り取らなかった箇所で、アディーチェは言っている。「ホルモン」と「能力」は切り離して考えるべきだ、と。
***Flawlessが超えられなかった壁。それは、「ありのままのわたし」として、自律的な主体を描きだすことだった。このときビヨンセが提示したのは、資本化されたモノとしての女性像だった。
時の経つこと10年。XGが「ありのままのわたし」を提示する
正直、WOKE UPのティーザーを見たときに、ちょっと不安になった。COCONAがロングヘアを、自らバリカンで刈るシーンは、伝統的な女性性の否定という、型破りにみえて、じつは「髪は女の命」という伝統と補完関係にあるような視覚表現だったら、つまらないな~と思ったからだ。それは杞憂に終わった。WOKE UPは、まったく別次元の作品だった。
この曲は、ものすごく挑発的にアンチを煽っているが、一方で、覇権的なシングルナラティブによる、強い女性像を提示しない。「カワイイ」とか「セクシー」という既存のラベルはどこにもないし、女の子が見につけるべき「男らしさ」というものも見当たらない。そもそも彼女たちは、牙がついているグリルを筆頭に、人間の身体の境界線を拡張するようなファッションに身を包んでいて、場所どころか、時空も次元も超えているようだ。
XGは、Shooting StarとLeft Rightで「宇宙」というモチーフを明確に打ち出してから、いままでずっと、さまざまなジャンルと文脈を混在させ、ブルデュー的な意味でのテイストで遊び、「見たことあるようで見たことない」、人によっては「いいのか悪いのかすら分からない」ヴィジュアルをつくってきた。この既視感と不確定さこそが、芸術における「新しさ」ということは、ボリス・グロイズに詳しいのだが、そうやって新しいスタイルを発明しようというファッショナブルな試みは、結果として、流動的で不確定要素が多い主体のリアルを映し出している。
WOKE UPの映像で特徴的なのは、メンバーがそれぞれ別の次元で、ユニークな「生き物」として存在している様子が描かれたあとに、 "woke up looking like this, so don't get under my skin"というフックで、突然、全員が顔を隠して、同じ狼のコスチュームを着て踊るところだ。これでもかと各個人の差異を見せた後、嘘のように全員が匿名化する。このジャンプに、わたしはすごいリアリティを感じた。
さらに、MAYAとCOCONAのラップの狼メタファーにも注目したい。MAYAは自分を"Mother wolf"「お母さん狼」と呼び、「わたしの子供たちを馬鹿にしないでよ」とラップをする。そのあと、すっかり坊主になったCOCONAが「若い女王、でもオンニにみたい振る舞うよ」と言いながら、ヴィクトリア朝インスパイアなドレスを着て立ち上がる。そして彼女は、"I'm a wolf in a pack" 「わたしは群れのなかの狼」というのだ。ようするに、COCONAはクイーンでありながら、MAYAがいう「狼の子供たち」の一匹でもあるというのだ。
ビヨンセの***Flawlessに欠落していたのは、このマルチプルなアイデンティティ、"Everything everywhere all at once"的感覚だったのだと思う。男性と同等の成功を勝ち取りながらも、男性に愛されるというビヨンセの「完璧さ」は、アルファタイプの男性を称賛するヘゲモニック・マスキュリニティ(覇権的な男性性)の焼き増しであり、つねに支配者側であれという、家父長制特有の「動かなさ」がある。もちろん、そういう女性がいていいけれど、自律的であるかどうかということは、資本主義の価値にかならずしも換算できるわけではない。女性は、というか、人間の生命活動は、もっと複雑で多様なのだ。
だから、わたしたちは、既存のなにかに変わること(becoming)、今のままでいること(being)、この二つを気まぐれに行ったり来たりしてOKで、キャラクターや社会的役割の一貫性を欠く自由をもっている。XGのWOKE UPで提示された「ありのままのわたし」は、そういう自律的な主体だ。自律的な主体は、何をしでかすか分からない。髪をそるかもしれないし、ボスになるかもしれないし、顔を隠して集団行動するかもしれない。その不確定さゆえに、本人以外には、掌握不可、支配不可な存在だ。そしてそれは、「眺める主体」である男性を喜ばせるための「オブジェ」であれ、というアイドルに課せられたステレオタイプを、大きく覆すことでもあるだろう。MVの最後に、大きな偶像(アイドル)が崩壊していくシーンは、このビデオで唯一、非常に字義的な表現である。
彼女たちは怒っている。然るべき態度と抱負なボキャブラリーで、異議申し立てをしている。"I woke up looking like this, so don't get under my skin"
「ありのままの私はこんなかんじ、だからイライラさせないでね。」きっとこの歌は、たくさんの女の子を導き、大人の女性を慰め、みんなを踊らせるだろう。