きりのたまご
霧の朝、私は卵を買いに車を走らせた。
数メートル先も見えないほどの濃霧だから、ライトをつけ、ときおりクラクションを鳴らしながら、海沿いの道を進んだ。海からも汽笛が頻繁に聞こえる。
海沿いにある直売所の駐車場はすでに混んでいた。この店では新鮮な野菜や果物だけでなく、最近価格が高騰している貴重な卵が手に入るから、その情報を手に入れた者たちがひっきりなしに訪れる。
私は車を降りると、すぐに卵売り場に向かった。生産者カップルの写真が貼られている棚には、透明なパックにひとつだけ入った卵が並んでいる。黒、青、赤、その濃淡もさまざまな卵。生産者直売だから新鮮な卵。
私はまず、生産者カップルの写真を丁寧にゆっくりと見てまわった。生産者の顔を知ることができるのは、直売所だけだ。
『A4981カップルの卵は二年前に買ったけど、駄目だったわね』
『R5029カップルは片方が太りすぎね』
心の中で独りごちながら、写真の下のキャプションも読む。記載されているのは、だいたいカップルの略歴だ。
『宇宙自衛官カップル』『陶芸家と小説家』『人工栄養士と機械工』などなどの文字を読み、写真の顔を見て、また棚から棚へと歩いた。
笑顔の写真の前で足を止めた。カップル共に口を大きく開けて笑っている今どき珍しい写真に視線を奪われた。N4141カップル、二人揃って二十代、経歴もまずまず。
私は指先で写真の下にあるQRコードを読み取って、リンク先の動画を立ったまま脳内で観た。カップルの普段の穏やかな生活が伺える動画だった。
うん、いいかも。
私は心を決めて、店の棚からN4141の卵を手に取った。鶏卵の十倍ほどの大きさの卵、重さは20g弱。
そのとき、隣に立っていた人が同じN4141の卵を手に取ったから、思わず顔を見てしまった。目が合った。
私と同年代らしき男性。赤煉瓦色の瞳、黄土色の肌、新緑のように鮮やかな黄緑色の唇。その顔の、土臭さを感じさせる配色に惹かれた。
一緒に卵を生産しませんか?
つい、そう言ってしまいそうになったけれど、心の揺れは一瞬で収まった。
この霧の時代に、コイやアイに関連することを一からする勇気はない。自己管理できない心拍数の変化は恐ろしい。
男性にも同じような心の揺れがあった、と私は思う。一緒だけ目を細めて私を見て、その瞳に深海色の肌の私を映したあと、瞬きをした。
「今日は特に霧が濃いですね」
男性が私に言った。
「ええ、何も見えないわ」
お互いの目を逸らし「成功しますように」と言い合い、レジに向かった。
駐車場に戻り、車の助手席に設置した卵シートに、買ったばかりの高価な卵をそっと置いた。割らないように気をつけなければいけない。
ますます濃くなった霧の中を運転する。フォグランプをつけて、スピードを落とす。センターラインが見えない。自分がどこを走っているのか不安になる。それでも進まなければならない。
助手席の卵シートに目をやる。今日から、私はこの卵を温める。ひとりで温める。上手く産まれてくれるだろうか。産まれて、カゾク登録をしたら私はあの生産者カップルのように笑うのだろうか。
卵を温めている間、自分の中にもほんのりと感じる温もりがアイというものかも、と私は少しだけ気づいている。
フロントガラスが曇っているので、ワイパーを動かした。前方が見えない。霧のせいだけでないようだ。視界が滲んでいる。
あぁ、涙だ。私は涙というものを流しているのだ。涙。なんと古臭くて懐かしいもの。