私は二日前の夜を思い出す。
あの夜、慎也は、明かりのついていない自宅を不審に思ったのか「おい、真美、居ないのか」と私を呼びながら、リビングに入ってきた。
「おい、なんだ、電気も点けず。寝てたのか」
慎也はそう言って、照明のスイッチを押した。
テーブルに顔を伏せて泣いていた私は、ゆっくりと顔を上げた。蛍光灯の青白い光が、目に痛いくらい眩しかった。
私は、用意していた言葉を一気に、出来るだけ落ち着いた声で言った。
「今日ね、電話があったの。あなたのご主人が愛しているのは私ですから、別れて下さいって」
自分の声に驚いた。震えていた。まるでテレビドラマだな、と他人事のように思った。
「心当たり、あるの?」
一応、訊いてみた。
慎也はスーツ姿でリビングの中央に立ったまま、テーブルの角を見つめていた。私と視線を合わせなかった。
きっと慎也は、息が詰まるほど驚きながらも、次に自分が取るべき行動、発するべき言葉を、猛スピードで考えているのだろう、と私は思った。
「イタズラだよ」「何かの間違いだろ」と言うか? 大声で笑うか? 怒るか?
私は涙で霞んで見える慎也を冷静に観察しながら、次の質問を投げた。
「香苗って誰?」
「えっ? 香苗?」
慎也が私の顔を一瞬見て、すぐに視線を外した。また、テーブルの角を見つめる。
「あなたが、出張とか残業だと言っていた日付、その香苗って人が、全部言ったの。昨日のことも。そのとき、どこで何をしていたかも」
慎也が顔をしかめた。
私は三年間一緒に暮らしている自分の夫の顔を見つめた。私は慎也の全てを理解しているつもりだった。
きっと、慎也は『香苗は電話で離婚を迫るような、そんな女だったのか?』と驚いているはずだ。『ウソだろ?』と頭の中で呟いているはずだ。
「その人のこと、好きなの?」
また、私の声は震えた。
慎也の唾を飲み込む音が聞こえた。好きに決まってる。だから私を裏切った。
慎也は疲れたような声で私に言った。
「真美、すまない。明日の夜まで待ってくれ。明日の夜、全て説明する」
そう、ここまでが、ニ日前の夜、私と慎也とのやり取りだ。
私は、二日前の夜、寝室で一人で眠った。慎也はリビングで、たぶん一晩中起きていた。
慎也は、メールか電話で、香苗に連絡をとったはずだ。『香苗、お前、なぜ俺の妻に電話なんかしたんだ?』と、彼女を責めたのだと思う。
だから、次の日の午前中、慎也が仕事に出た後、香苗から電話がかかってきたのだ。
滅多に鳴らない自宅の固定電話が鳴ったとき、私は『あぁ、あの女からの電話だ』とすぐに分かった。深呼吸をして、気持ちを落ち着かせてから電話に出た。
香苗は、最初から叫んでいた。私を攻撃した。私を非難した。私を罵った。
私は冷静に対処した。彼女が激昂すればするほど、私の心も声も氷のように冷たくなった。
会話の一部分だけを、録音した。
その夜、私は、録音した香苗との会話を再生して、慎也に聞かせた。
「主人はあなたに、愛しているって、本当に言ったのですか?」
「そうよ、だからあなたは必要ないの。必要とされてないの。別れなさいよ」
ヒステリックな香苗の声が、電話機のスピーカーから、リビングに響いた。香苗が、土足で我が家に入ってきた気がした。
慎也は、香苗の声を避けるかのように、首を左右に振った。そして、
「すまない。この女とは別れる。こんなことをする女だとは思わなかった。許してくれ。もう、絶対に浮気はしない」
私に謝った。
今朝、私は早起きをして、通常通り、慎也のお弁当を作った。人参をハート型にくり抜いて、ハンバーグの上に飾った。
お弁当の蓋を開けたとき、慎也は私に感謝するはずだ。自分の行いを後悔するはずだ。
私は洗面台で顔を洗った。今朝は本当に気分が良い。久しぶりに気分が良い。
「馬鹿な男」
声に出して言ってみる。物事の表面しか見ることの出来ない男、慎也、私の夫。
ビデオを巻き戻すように二日前の夜に戻って、私は頭の中で『私の芝居』を再生してみる。
私がついた嘘。なかった電話。
「今日ね、電話があったの。あなたのご主人が愛しているのは私ですから、別れて下さいって」
この嘘で、慎也と香苗、二人が踊り、自滅したのだ。
慎也の浮気は、半年前から気づいていた。
どんどん香苗の方に傾斜していく夫の気持ちが、彼の表情や態度から読み取れた。
だから計画した。あの二人の仲を破壊する計画。夫が未練などいっさい残さないで別れる方法。
慎也は思ったとおり単純だった。自分の大人しい妻に、電話で離婚を迫ったという愛人への熱を一瞬で冷ました。女が攻撃する側に回ると、男は尻尾を巻いて逃げる。慎也のような男は特に。
愛人の香苗は、これまた、私が想像したとおりに動いた。次の日、私に電話をかけてきた。
「嘘つき。私はあなたに電話なんてかけてないのに、嘘をついたのね」
私は怒り狂う香苗から、欲しかった言葉を引き出し、そこだけを録音して慎也に聞かせた。それが、決定打となった。
そう、全て、私の計画通り。
もし、私の読みが外れていたら?
そのときは、そのときだった。どうせ、もう壊れていたのだから、全てが。
ただ私以外、あの二人だけが幸せになるのは許せない。だから破壊した。
鏡を見る。
澄ました顔の女が、鏡の中にいる。
その女が、私が言う。
「あなたって、本当に怖いオンナね」
そうかも知れない。私は恐ろしい女かもしれない。では、慎也や香苗は? あの二人は優しい心を持っている人間なのか?
私は、鏡の中の女を睨みかえす。
そう、私は怖いオンナ。
だから?
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