愚痴回収ボックス
最近、気になることがある。朝、目覚めると、妻の琴音が家にいない。
カーテンの隙間から朝の光が入り、白い壁の上でちろちろ踊っている。それを眺めながら、僕は耳をすます。
しばらくすると玄関ドアの開く音がして、琴音が帰ってきたのが分かった。キッチンで冷蔵庫のドアを開ける音して、コーヒーの匂いが寝室まで漂ってくる。
僕は起き上がり、キッチンへ向かった。
「どこに行ってたんだよ?」
トマトを切っていた琴音が顔を上げ「おはよう」と、化粧をしていないすっきりとした笑顔を見せた。
「愚痴回収ボックスに行ってたのよ」
昨日も一昨日も、同じ返事だった。愚痴回収ボックスは、このマンションの各階にひとつ設置されている。
僕はダイニングテーブルに座り、新聞を広げ、連続殺人犯逮捕という見出しを見ながら、昨日と一昨日と同じ質問を、また繰り返した。
「琴音、何を愚痴ったんだ?」
ハムエッグとトーストとサラダを載せた皿が、僕の前に置かれた。返事はない。
僕は新聞から顔を上げた。目が合うと、琴音は微笑んだ。窓から入る朝日がその顔に当たって、琴音はまぶしそうに目を細めた。
「愚痴はね、愚痴回収ボックスに回収してもらったのよ。たがら、もう良いの」
小さな子供に言い聞かせるような、ゆっくりとした口調で答えた。
もう良いってなんだ? 心の中で、僕は言う。
毎朝、目覚めてすぐに回収されたい愚痴って、何なんだ?
とても気になるのだけれど、回収ボックスがあるから、琴音が愚痴をこぼすことはない。僕が妻の不満を聞くことは、ないのだ。
子供がまだいない僕たちの食卓は静かだ。かちゃりとフォークが皿に当たる音がするだけ。時折目が合うと、僕たちは音のない笑みを見せ合う。
朝食を食べ、身支度を整えると、僕は玄関に向かう。共働きだから、僕の後に妻も出勤する。
洗面所で化粧をしている琴音に向かって「いってきます」と言うと「いってらっしゃい」と朝にぴったり寄り添うような明るい声が返ってきた。
マンションの細く長い廊下に出る。突き当たりのエレベーターホールの壁には、愚痴回収ボックスが備え付けられている。
僕は、1階にいるエレベーターを10階に呼ぶためのボタンを押してから、素早く愚痴回収ボックスの蓋を開けた。
「琴音、言いたいことがあるんなら、僕に言えよ。はっきりと言えよ」
愚痴回収ボックスの中に頭を突っ込んで、怒鳴るように言った。
頭を回収ボックスから出して蓋をしめると、胸にあった固いしこりのようなものが跡形もなく消えていた。しこりのようなものは、回収ボックスの中にある管をするすると下り、マンションの地下にある愚痴収集場所に落ちたはずだ。
「おはようございます」
同じ階に住む、40代くらいのスーツを着た男がやってきた。
「おはようございます」
男は会釈をしてから愚痴回収ボックスの蓋を開けたので、僕は1人でエレベーターに乗り込んだ。振り返ると、回収ボックスに頭を入れている男の尻が見えた。
エレベーターの扉は閉まり、一瞬ふんわりと宙に浮いたような感覚を僕に与えて、静かに一階へと向かう。不満が抜けた分だけ軽く感じる体重を両足にかけて「あぁ、清々しい朝だな」と僕はつぶやいた。
僕が働く食品メーカーの本社は、昭和に建てられた7階建のビルで、平成生まれの若いビルに囲まれている。愚痴回収ボックスのような令和生まれの設備もない。
もっとも、愚痴回収ボックスは、まだ首都圏のマンションと大企業数社にしか採用されていない。
出社してパソコンの前に座るとすぐに、隣の席の同期の林が顔を寄せてきた。
「知ってるか? アマアマ製菓が新工場を建設するらしいんだけど、愚痴回収ボックスも設置するんだってよ」
「へぇ。株価、上がるな」
僕は、パソコンを起動させながら答えた。
愚痴回収ボックスを設置した企業の業績は急激に上がる、そして株価も上がる。ここ数年で、結果が数字となって現れた。
「愚痴回収ボックスって、そんなに良いのか?」
僕が現在のマンションに引っ越した半年前、周囲の人はとても羨ましがった。
テレビでは愚痴回収ボックスが設置されたマンション住民の幸福実感指数を連日報道していたし、ネットにも回収ボックスがいかに地域の平和に貢献しているかという口コミが書き込まれていたからだ。
「そうだな。僕が住んでいるところは、マンションでよくある上下階の揉め事もない。主婦グループの揉め事もないみたいだな。夫婦喧嘩の怒声を聞いたこともないよ」
「はぁ、良いなぁ。俺なんか、今朝も嫁さんのぶーたらぶーたら長い愚痴を聞いたけどな」
林は、口を膨らませて、ため息をついた。
そうなのだ。今の賃貸マンションの抽選に当たった僕たち夫婦は、本当にラッキーだったのだ。
林のくたびれたような横顔を見たあとに、パソコンディスプレイに映る半分笑ったような自分の顔を見て、僕は改めて幸運を噛み締めた。
僕が住む10階に、白髪の老夫婦が住んでいる。ご主人はゴミを出すときでも襟つきのシャツを着て、姿勢をぴんと伸ばしている。奥さまは、ふくよかで、いつも甘い物を食べた後の子供のような顔をしている。
僕はたびたび、そのご夫婦が愚痴回収ボックスに長時間頭を突っ込んでいるのを目撃していた。
朝の出勤時には奥さまの方が、仕事帰りにエレベーターを降りるとご主人の方が、愚痴回収ボックスに頭を入れているのを見た。
ある日、回収ボックスの前で会ったご主人に訊いてみた。
「どんな愚痴をこぼしているのですか?」
ご主人は、目を見開いた。
「愚痴? 愚痴などありませんよ。人間ね、己を知って、どんなことでもありがたいありがたいと思うよにしていたら、不満なんて生まれないのですよ」
じゃあ、なんで回収ボックスに何十分も頭を突っ込んでいるんだと言いたかったけれど、もしかしたらボケているのかもと思って、僕は「はぁ、そうですか」とだけ口に出した。
「あなたもね、歳をとると分かりますよ。幸せにはいろいろなカタチがあるって」
ご主人はそう言うと、胸を張って去っていった。
数日後に白髪の奥さまの方に回収ボックスの前で会ったので、同じ質問をしてみた。
「どんな愚痴をこぼしているのですか?」
「あら、やだ、お恥ずかしい」
奥さまは、身もくねらせ、おほほと笑った。
「誰にでも、殺意のようなものがカッと湧くときってありますでしょ。ありますわよね。それをね、心の中で切り刻みますの。そうしてね、小さな小さな愚痴にしてね、毎日こまめに捨てていますの。おほほほ」
奥さまは、また、淑やかに笑った。
昨日は近所の公園で、このご夫婦が手を繋いで散歩をしているのを見かけた。お二人の見事な白髪は、真っ白な鳩のように遠くからでも目立つ。幸せの象徴。そんな言葉が僕の頭に浮かんだ。
マンションのエントランスに貼り紙があった。
『この度、子供用の愚痴回収ボックスを増設することとなりました』
愚痴回収ボックスのあるマンションに入居希望者が殺到する理由のひとつに、子供たちの入学試験合格率がある。 回収ボックスのあるマンションに住む子供の幼稚園合格率は48% 。この低い数字は、愚痴をボックスに幼児が上手く吐き出せないからだと言われている。小学校の合格率71% 中学校83% 高校96%、年齢が上がるごとに、住居年数が上がるごとに、合格率も上がると、不動産屋の広告に掲載されている。子供たちには反抗期も中二病もないそうだ。
愚痴回収ボックスの前で、お行儀良く並んで順番を待つ子供たちをよく見かけていたので、増設は大歓迎だ。いつか、我が家にも子供ができるだろう。そのときのためにも、設備が充実しているのは喜ばしいことだ。
「おはようございます。雲ひとつない良いお天気ですね」
小学年生くらいの男の子が、大人のような挨拶をしてくれた。
回数が増えた。妻の琴音が、愚痴回収ボックスに行く回数が、明らかに増えている。
以前は、朝だけだった。それが、夕食後も行くようになり、休日などは朝昼晩と2回ずつ合計6回も行くようになった。
昨晩は、風呂の前に行き、夜中のセックス後にも静かに玄関から出ていき3分後に帰ってきた。
「なぁ、琴音、何か不満があるのか?」
今朝、僕は意を決して、訊いてみた。ちょうど、琴音が愚痴回収ボックスから戻ってきたときだ。
「え? 不満なんて、ぜんぜんないわ。不満なんてあるはずがないじゃない」
琴音は、いつものようにゆっくりゆったりとした口調で答えた。いつものように、笑みが顔に張りついている。そう言えば、もう長い間、彼女の怒った顔を見ていないなと気がついた。
「おかしいと思わないか。僕たち」
このマンションに引っ越す前は、些細なことで言い争いをした。例えば、ジャムのフタをちゃんと閉めていなかったのは誰だとか、テレビのリモコンの置き場所を決めるときとか。ときには琴音が泣き、僕が謝ることもあった。2人の好みや生活習慣、細かな違いから生まれる不満を、喧嘩したり話し合ったりしながら、すり合わせてきたはずだ。
「何がおかしいの?」
心底不思議なように、琴音は首をかしげる。
「愚痴回収ボックスだよ。あれに僕たちは頼りすぎている。依存しすぎている。そう思わないか」
琴音は、静かに僕を見つめた。
「私は幸せよ。心の平穏って、一番大切なものだもの。ねぇ、そんなことより、私たちの愚痴って環境にも役立つそうよ。昨日のニュース、知ってる? 回収された愚痴の熱を電力に変える技術が開発されたそうよ」
「あぁ、地熱みたいに、エネルギー源となるらしいな」
「そうよ。そして、愚痴ってなくならないのよ。永続的にあるの。再生可能エネルギーなのよ。素晴らしいわよね」
「あぁ、素晴らしいな」
「だから、頼っているとか、依存しているとか、そんなんじゃないと思うの。心の平和のために愚痴は回収してもらう、それがエネルギー源となる、上手く世の中が回っていくのよ。地球は回る。愚痴も回る。くるくるくるくる」
琴音は、楽しそうに歌うように言った。
いや、そうじゃないだろ、と僕は言葉をつなげようとした。
「ねぇ、あなた、ちょっとヘンよ。疲れているのかしら。愚痴回収ボックスに行っきたら? もっと行くべきよ。回収してもらったほうが良いわよ」
琴音を見つめた。表情に変化のなくなった彼女の顔。いつも笑顔の妻。その背後の壁にかけた鏡に僕が映っている。眉間に皺が寄っている。不満気に皺を寄せた顔は、ずいぶんと老けて見えた。こんな自分の顔は、久しぶりに見た。
「くるくるくるくる」
琴音が歌うように言い、笑う。
僕は、急いで.愚痴回収ボックスに向かった。
⭐︎4,355文字
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?