掌編集『球体の動物園』 いそげスローロリス
「あぁ、あんた見てたらイライラする。いいわよ、私がする」
莉奈ちゃんはそう言って、私の手からカップ麺の空の容器を奪い取った。
腹が立ったから、私は莉奈ちゃんを睨みつけて言い返した。
「食べたらすぐに片付けてくださいって、言いましたよね。いつまでもテーブルの上にあるカップ麺の容器を見てると、私の方がイライラするんです」
「あんたって、動くのはのろいくせに、怒ったら早口になるんだね」
莉奈ちゃんは私を睨み返し、怖い顔をしたまま、カップ麺の容器をゴミ箱に投げ入れようとする。
「莉奈ちゃん。容器の中の汁はキッチンのシンクに流してから、ゴミ箱に捨てて下さい」
「あーあー、はいはい。あぁ、スローロリスなんかと同居するんじゃなかった」
莉奈ちゃんはドタドタと音を立ててキッチンまで行って、容器に残った汁をシンクにぶちまけた。
私は、リビングの、マグカップをふたつ並べたテーブルの前に座る。
反抗期の子供のように、ドタドタと音を立てて戻ってきた莉奈ちゃんは、どたっとまた音を立てて座り、マグカップに口をつけた。
「ぬるっ。この珈琲、ぬるいんだけど。ロリスちゃん、あんた、どれだけ時間かけて珈琲淹れたの?」
「ほんの一時間です」
「一時間、やばっ、ロリスちゃん、やばすぎ」
莉奈ちゃんは、私には意味の分からない言葉を繰り返す。
「あぁ、でも、うまい。ぬるいけど……。高級な豆の味」
「いえ、スーパーで買ったものです。丁寧に淹れると味もちょっと変わるみたいですね」
「ふーん、なるほど。スローロリスだからこその特技かぁ」
莉奈ちゃんの背後の窓には、莉奈ちゃんの趣味のショッキングピンクのカーテンがかかっている。その横の壁には、三か月前にこの部屋から出ていった男が貼ったというヒップホップバンドのポスターが貼ってあり、三人の男が「いぇーい」とでも言うように手を突き出してこっちを見ている。
時計の針を見ると、もうすぐ縦一直線の六時になる。午後六時だ。
「じゃあ、仕事に行ってくるわ」
莉奈ちゃんは、珈琲を飲み干すと玄関に向かった。彼女はこれから近所のスナックで夜中まで働く。
莉奈ちゃんは出ていく瞬間に振り向いて「珈琲、まじ、美味しかった。ロリスちゃん、ありがとう」と言うと、ドアをバタンと閉めた。
莉奈ちゃんのハイヒールの足音は、コンクリートに穴を開けるかのように、がつんがつんとマンションの外廊下に響く。私は、がつんがつんに合わせるように、壁のポスターに向かって「いぇーい」と言ってみた。
『きみも莉奈ちゃんも夜行性だし、たぶん性格的にも上手くいくと思うよ』
まんまる不動産のゆづきくんは、私にそう言ってルームシェアを勧めてきた。
莉奈ちゃんが住んでいたこの部屋に私が越してきてのが一か月前。都会の高い家賃を半分ずつ負担する、莉奈ちゃんとはそういう仲だ。
莉奈ちゃんが仕事に行って静かになった部屋で、私はゆっくりと珈琲を飲んでから、あとで莉奈ちゃんと食べる食事の準備をした。
そして、十二時前になるとパソコンの電源をいれた。
「こんばんは」
十二時ぴったりに原田さんが画面に現れた。
私は人の話を聞くことで生計を立てている。焼き鳥屋で知り合った変な関西弁を話すおじさんに、この仕事を勧められた。
『あんた、聞き上手なんやから、それを商売にしたらエエねん。やってみなはれ』
他人と違う、動きが非常に遅い私は、仕事を見つけることができなかった。就職できても、すぐにクビになった。
だから、座って人の話を聞くだけでお金をもらえる、そんな上手い話があるはずはないと思いながらも『あなたのお話、聞かせてください』という広告を出した。
太陽が沈んだあと、眠れない人がパソコンの電源を入れる。夜は限りなく長いと感じる人が、ネットで検索して、私とつながる。何かを解決するわけでもない、画面で顔を合わすだけの、のろまのスローロリスと、つながる。
世の中にはただ話を聞いて欲しい人が、なんと多いことだろう。
「原田さん、こんばんは」
原田さんはリピーターさんで、週に一回、画面越しに会話をする。元商社マンで、Tシャツを着ていても鍛えられた肩の筋肉が目立つ、三十代の独身男性だ。
「どう? そちらの新生活は? 同居人の子とは仲良くやってる?」
「まあまあ上手くいってます」
私はカップ麺の容器と珈琲の話をした。原田さんの右頬にある小さなホクロを見ながら、もしかしたら私は珈琲を淹れる才能があるのかもしれない、と笑いながら言った。
「私は莉奈ちゃんと友達になれそうです、たぶん相性は良いです」
原田さんは頷いて「その子、口は悪そうだけどね」と笑った。
「悪いですね。でも、私のことをイライラするってはっきり言う人の方が、無言で態度だけでイライラを現す人より、楽です」
「へぇ、そうなんだ」
私は思い出す。のろまだからと学校で無視されたとき、駅の階段やスーパーのレジで舌打ちをされたとき、顔を上げると決まって歪んだ顔が私を見ていたことを。その目が私を萎縮させたことを。
「僕は、成功の秘訣は時間を有効に使うこと、一秒でも早く動くことだと、ずっとそう思っていた。仕事が遅い同僚や部下を見ると、イライラするだけじゃなくて、ずいぶんと酷い態度をとってきたんだ」
原田さんは右手に持っていたグラスに口をつけた。ビールを飲んでいるようだ。私もコップに入れていた水を飲んだ。コップを持ち上げて口に持っていく私の右手の移動時間は、他の人にとっては我慢できないくらいに長い時間がかかる。原田さんは、ビールを飲みながら黙って私の動作を見ていた。
「きみのその動きを初めて画面越しに見たときは、イライラして気が狂いそうだった」
私は笑って「そういう顔をしてました」と言った。
「眠れないって言う部下がいたら、じゃあ仕事したら? って言ってた。なんだろうね、僕って、酷いよね。何を考えていたのだろう。自分が眠れなくなって、仕事もやめて、時間だけはあるからぐずぐずと過去を振り返るようになったら、僕の過去はね、タイムラプスで撮影した動画みたいなんだ。タッタッタッと流れる」
私はスマホで見たタイムラプス動画を思い出してみた。
「タイムラプス好きですけどね、短い時間にテキパキと動いて印象に残って。羨ましいです。憧れます」
原田さんはふんというように笑った。
「でも、現実味がないよね。そんな感じなんだ、僕の過去は。タッタッタッとコマ送りのように流れて一瞬で終わり。立ち止まって見た景色がないんだ。虚しいなぁと思ったよ」
私とは正反対の生活をしていた原田さんの気持ちを、私は分からない。ただ、聞く。想像する。
「仕事を辞めて、今、時間だけはたっぷりある。それでも、まだ僕はゆっくりすることに慣れないんだ。身体は慣れても、気持ちが慣れない。置いてきぼりにされている感じがする」
置いてきぼりという気持ちだけ、私にも分かる。のろまだから、置いてきぼりは常だ。
原田さんはまたビールを飲んだ。私も水を飲み、お互いしばらく黙っていた。
原田さんのいる部屋の壁には、丸い大きな時計があって、秒針がコチコチと規則正しく音を立てる。そんな小さな音まで、私のところに届く。気持ちは完璧に共有できないけれど、時計の針が刻む時間はぴったりと共有できる、と思う。
「原田さん、昨日の夜はね、仕事に行った莉奈ちゃんから突然電話がかかってきたんですよ」
私が話し出すと、原田さんはまっすぐに私の目を見た。
「莉奈ちゃんが(この電話を切ったら、すぐに私に電話して。すぐによ。そして私が電話に出たら、大きな声で、お腹が痛いから莉奈ちゃん帰ってきてって叫んで)って言うのです」
「ほう」
「すぐにって言われたから急ぎました。電話を切って、すぐにリダイヤルボタンを押して、言われとおりに、お腹が痛いって叫びました」
原田さんが顔をパソコンに近づける。
「莉奈ちゃんは私の叫び声を聞いてから(ロリスちゃん大丈夫? わかった、すぐに帰るね)って芝居がかった声で言って、電話の向こうにいる誰かに(ごめんなさい、同居人の体調が悪いからお食事には行けません)って言ってるんです」
原田さんが笑いはじめた。
「苦手なお客さんから誘われたらしくて、断る嘘に私を使ったんです。あとで莉奈ちゃんに(スローロリスのすぐって五分後かなって思ってたけど、すごいじゃん、三分以内に電話がかかってきたよ。助かった。ありがとう)って言われました」
「面白い子だなぁ、莉奈ちゃんって」
「私は、すぐにって言葉や、急いでって言葉が苦手なのですが、五分が三分になって褒められるって良いなぁって思いました」
「なるほど」
「みんなの役には立てなくても、隣の誰かひとりの役に立てる。それでいいかなぁって思いました」
「なるほど」
「私はのろまだからいつも置いてきぼりにされるけど、その場所でも横を見たら、誰かがいるんですね」
原田さんはビールを見ている。
たぶん原田さんは、置いてきぼりにされている場所そのものが嫌いだ。横を見たくもないのだろう。私とは違う。それでいい。
「私でも役に立つことがあるんだなぁって思いました」
「きみは充分に役に立っているよ。こうして話しの相手をしてくれるだけで、僕にとっ」
原田さんがしゃべっている途中で、勢いよく玄関ドアを開ける音がした。
「ただいまぁ、ひぃ、疲れたぁ」
莉奈ちゃんが大声で言いながら部屋に入ってきた。
「あぁ、ごめん。仕事中だった? あら、イケメンじゃん」
莉奈ちゃんは、私の横に倒れるように座って、パソコン画面を覗きこんだ。マスカラが落ちて目の下が黒くなっている。
「こんばんは。莉奈でぇす」
「はじめまして。原田です」
「原田さん、ロリスちゃんと話してるってことは、眠れない人なの?」
原田さんは画面の向こうで首を縦に振った。
「じゃあ、夜、ひまよね? 原田さん、ロリスちゃんと話すのに飽きたら、ウチの店に来てよ。楽しませてあげるから」
原田さんが珍しく大きな声で笑った。
「ちょっと莉奈ちゃん、仕事の邪魔しないでください」
「はいはい。原田さん、またねぇ」
莉奈ちゃんは、画面の中の原田さんに手を振ってバスルームへ向かった。その後ろ姿を、原田さんの目が追う。
「原田さん、莉奈ちゃんのお店はね」
私は莉奈ちゃんの店の名前と場所を教えてあげた。
今日は私ばかりが話をして、原田さんの話をあまり聞いてあげられなかった。原田さんは、私と話すのをやめて、莉奈ちゃんのお店に行くだろうか? それも良い。
カーテンの隙間から月が見える。月がこちらを見ている。月から見る、この球体の動物園は楽しい場所だろうか?
ねぇ、お月さま、笑ってる?
「ロリスちゃん、お腹すいたぁ」
バスルームから出た莉奈ちゃんが言う。
「夕飯、食べますか」
私と莉奈ちゃんの、ふつう、午前三時がはじまる。
【半径より皆さまへ】
掌編集『球体の動物園』全五話の投稿を終了しました。全五話のうち四話は、以前投稿していたものを加筆訂正して再投稿したものです。
読んでくださった方、二度目なのにまた読んでくださった方、スキを押してくれた方、コメントをくださった方、マガジンに収録してくださった方、ありがとうございました。
じめじめと暑い日が続いておりますが、創作大賞の終盤に入って皆さんの目も画面の見過ぎで充血きていると思いますが、お身体に気をつけてくださいね。LOVE ××