伝光録 第四十三祖 |大陽明安(だいようみょうあん)大師

【本則】
大陽明安大師がちなみに[1]、梁山りょうざん和尚に問う。「いなかるか、これ無相[2]の道場」。梁山和尚は観音像[3]を指して曰く、「這箇しゃこはこれ、呉処士[4]による画」。明安師が、進語[5]をしようと擬す[6]。梁山は急に求めて[7]曰く、「這箇はこれ、有相底ゆうそうてい[8]。いかなるか、これ無相底[9]」。明安師は言下げんかにおいて、省[10]あり。

呉道玄 「観音像」


【機縁】
明安大師のいみな警玄きょうげん。『伝灯録』[11]などが記するところ、時の皇帝の御名[12]によって警延きょうえんという。しかれども、実の諱はこれ、警玄なり。江夏こうか[13]、張氏の子。智通ちつう禅師によって出家す。十九歳にして大僧だいそう[14]となり、円覚了義えんがくりょうぎ[15]を聴く。講席こうせき[16]によく及ぶ者なし。ついに遊方ゆうほう[17]して初めて梁山に至り、問ふ、「いなかるか、これ無相の道場」。……師、ついに省あり。すなわち礼拝し、本位[18]によって立つ[19]。梁山が曰く、「なんぞ、一句を道取[20]せざる」。明安大師が曰く、「道うことは、すなわち辞[21]せず。おそらくは紙筆にのぼらん[22]」。梁山は笑って曰く「この語、碑[23]にのぼせさることあらん」。師は偈を献じて曰く、
「我れ、昔、初機[24]に、学道に迷う。
万水千山ばんすいせんざん[25]に、見知けんち[26]を求む。
今を明らめ、いにしえを弁じ[27]て、ついに会がたし。
じかに、無心と説くも、まろびさらに疑う。
師[28]が秦の時代の鏡[29]を転出[30]するをこうむり、
父母未生の時[31]を照らし見る。
如今にょこん[32]に学了[33]し、何を得るところぞ。
夜に、烏鶏を放って、雪を帯びて飛ぶ[34]」。
梁山がいわく、「洞山の宗よる[35]べし」と。一時に[36]声價せいか[37]が籍籍[38]たり。梁山は沒し、師は、梁山の塔を辞して、大陽だいようにいたり、堅禅師にえっす[39]。堅禅師は席を譲って、これを主たらしむ。それより洞山一宗、さかんに世におこる。人はことごとく風[40]に走る。師は神観[41]奇偉[42]にして、威重いちょう[43]あり。兒稚じち[44]の時より、日にただ一食し、自ら先徳[45]付授[46]の重き[47]をもって、足はしきみ[48]を越えず、脇は席にいたらず[49]。歳八十二にいたってなおかくの如し。ついに陞座しんぞ[50]して、衆を辞し終焉す[51]。

【提唱】
実にそれ参学[52]で、もっとも切要[53]とすべきは、すなはちこれ無相道場なり。形を帯びず、名を受けず。ゆえに言にあづからずといえども、必ず果然として明らかなるところあり。いはゆる父母未生の時の形貎けいぼう[54]なり。ゆへにこの田地でんじ[55]を示さんとするに、呉処士が描くところの観音の像をさす。あたかも鏡[56]を示すがごとし。いはゆる眼あれども見ず、耳あれども聞かず、手あれども取らず、心あれどもはからず、鼻あれどもかがず、舌あれども味ひず、足あれども踏まず、六根ことごとく用なきがごとく。全体すべて閑家具かんかぐ[57]なり。あたかも木人もくじん[58]のごとく、鉄漢てつかん[59]のごとし。このとき、見色けんしき聞声もんしょう[60]、早くまぬれ終わりぬ。ここに大陽大師が進語せんとせしに、梁山禅師は木?(もっけつ)[61]にとどまらざらしめんとして、急に求めて曰く、「這箇はこれ、有相底。いかなるか、これ無相底」と。この不用[62]底をもって、無面目を知らしむ。明鏡を見て、己を知るがごとし。
むかし秦の時代に鏡ありき。かの鏡に向かへば、身中の五臟六腑、八万四千の毛孔もうこう、三百六十の骨頭こっとう[63]、みなことごとくみるがごとし[64]。耳目あれども用ひざるところに[65]、身心を帯せざるところを看見かんけんす[66]。有相[67]の千山万水[68]が、ことごとく破れきたるのみにあらず。無心無分別[69]の暗昏あんこんがすみやかに破れ、天地と分かれず、万像すべてきざさず[70]、了然りょうぜん[71]として円具えんぐ[72]す。実にこれ、洞上どうじょう[73]の一宗、一時の声價、かくのごとくなるのみにあらず、累祖るいそ[74]見得けんとく[75]する者は皆、もってかくのごとし。
大陽大師はこの旨を会せしよりのち、大陽山に居し、そこに僧あり。大師に問いて曰く、「いかなるか、これ和尚の家風[76]」。師が曰く、「満瓶まんびん[77]が傾き、出さず[78]。大地に飢人きにん[79]なし」。
実にこれこの田地[80]、傾くれども出さず、押せども開かず、いどむれども起きず、触れるとも跡なし。ゆえに耳目の至るところにあらず。この田地、語黙動静[81]にともないきたれども、かつて[82]動静に妨げられず。この事は、ただ祖師独ひとり、具足[83]するのみにあらず。尽大地じんだいち[84]の人、一箇[85]も具せざるなし。ゆえにいう、「飢えたる人なし」と。
しかれば、諸禅徳、幸いに洞家[86]の兒孫じそんとなりて、すでに古仏の家風に会えり。精細綿密に参到さんとう[87]して、父母未生みしょう色空未起しきくうみきの時の自己に承当しょうとう[88]し、すでに一毫いちごう[89]ばかりも相承そうじょう[90]なきところにいたり、すでに微塵みじんばかりも外物なきところを見得し、千生万劫せんしょうまんごう[91]を模索[92]すれども、四大しだい[93]五蘊ごうん[94]、得[95]きたらず。十二時中一時も欠少けつしょう[96]なきところを明らめえば、まさにこれ洞家の兒孫、青原せいげん[97]の枝派しは[98]ならん。
しばらく、いかんがこの這箇の道理を通ずる[99]ことを得ん。聞かんと要すや。

円鏡を高く懸げ、明映に徹す
丹護(たんご)[100]は美を尽くし、書は成らず[101]

【注】
[1] ちなみに:熱心に、心をこめて。 [2] 無相:形がないこと [3] 像:立像ではなく画像 [4] 呉処士:呉道玄ごどうげん。唐代の著名な画家。なお処士は、教養があっても官につかえない人。 [5] 進語:すぐに発言する。 [6] 擬す:突きつける。 [7] 求めて:さえぎること [8] 底:上の語をうけて名詞形をつくる語。 [9] 無相底:梁山が大陽に逆に問いかけている。

[10] 省:悟り [11] 伝灯録:=『景徳伝燈録けいとくでんとうろく』の略。宋の僧・道原によるもので、釈迦以来の仏教の伝受を記述したもの。 [12] 御名:皇帝の名前が警玄であったために、その名を避けた。 [13] 江夏:湖北省武漢市武昌。 [14] 大僧:=大僧戒。比丘の受持する戒。大乗では梵網の十重四十八軽戒。 [15] 円覚了義:=『円覚経』。「大円覚心」を得るためには、上・中・下の三機根に応じて、奢摩他(samatha)・三摩鉢提(sam?patti)・禅那(dhy?na)の三種の浄観を修習すべしと説く。中国仏教に大きな影響を与えてきた大乗起信論にとって代る重要経典であった。『楞厳経』と共に「教禅一致」を説く経典と見なされた。 [16] 講席:書物の講釈や説教などの行なわれる集会所 [17] 遊方:禅宗で、雲水が四方に遊歴して師をたずね、修行すること。 [18] 本位:もとの位置 [19] 立つ:三拝九拝する。

[20] 道取:適切に言い表わすこと。 [21] 辞:辞退する [22] のぼらん:残す [23] 碑:石碑。 [24] 初機:はじめて仏の教えを信ずるようになった人 [25] 万水千山:ありとあらゆる場所 [26] 見知:物事を見極め知るはたらき。ここでは仏教教理に通じること。 [27] 古を弁じ:歴代の祖師たちが残した本や言葉を理解しようとする。 [28] 師:梁山禅師 [29] 鏡:秦の始皇帝のとき、外面だけではなく五臓六腑まで写し出す鏡があった。

[30] 転出:目立つように現し示すこと [31] 時:自分の父と母が生まれる前の自分の顔 [32] 如今:たった今 [33] 学了:すべて修め終える [34] 飛ぶ:「烏鶏雪上行」を踏まえた句。雪の上を歩く黒い鶏のこと。黒鶏は悟りの世界、白い雪は現象世界のことで、この[2]つの世界を自由に動き回ること。これが通常の解釈であるが、たんに黒い鶏が真っ白な雪上を歩いている姿を描写しているともとれる。無門関第[24]則「長えに憶う 江南三月の裏 鷓鴣啼く処 百花香し」(とこしなえにおもう こうなんさんがつのうち しゃこなくところ ひゃっかかんばし)。 [35] よる:依拠する。宗門はお前によって支えられるということ。 [36] 一時に:すぐさま [37] 声價:評判、名声 [38] 籍籍:口々に言いはやすさま [39] 謁す:訪問する。

[40] 風:宗風。禅の修行の仕方など。 [41] 神観:神のような外見。 [42] 奇偉:めずらしいほどすぐれていて、立派であること。 [43]威重:どっしりと落ちついていて、人を圧する威厳のあること。 [44] 兒稚:幼少。 [45] 先徳:死亡した高徳の僧。また、前代の有徳の僧。 [46] 付授:さずけあたえること [47] 重き:法の伝授に責任を感じる。 [48] 限:=閾。寺の外に出なかったということ。 [49] いたらず:横腹を単(自分の坐る場所)につけることをしないとは、横臥して寝なかったということ。

[50] 陞座:禅宗で師僧が説法のとき、高座などに上ること。 [51] 終焉:生命が終わること。死を迎えること [52] 参学:仏教を学ぶこと [53] 切要:重要 [54] 形貌:すがた。 [55] 田地:本来の面目である所。 [56] 鏡:ここでは悟りを得たことによって体験する世界。 [57] 閑家具:無用な道具 [58] 木人:木でつくった人形 [59] 鉄漢:何事にも動じない男。

[60] 見色聞声:見色は、眼が対象を見て生ずる感覚。聞声は、耳が音声を聞いて生ずる感覚。我々が現実を思っているこの世界。 [61] 木?:香木の断片をいう。ここでは目に見える観音像の姿。 [62] 不用:六根が使われていないこと [63] 骨頭:胎児は母胎内で三百六十の骨節、八万四千の毛穴を生じる(「父母恩重経」)。ここでは身体全体をさしている。 [64] みるがごとし:ここでは自己の本来の姿をしっかりみさせてくれるということ。 [65] ところに:という状態で [66] 看見す:法のまなこで見える [67] 有相:現象界 [68] 千山万水:全存在、全宇宙。 [69] 無心無分別:悟っているという意識で浅い見性。何も存在していないという見識。

[70] きざさず:生じる、起こる。ここでは宇宙そのものがいまだに生成していないときということ。 [71] 了然:はっきりとよくわかるさま。 [72] 円具:完全に欠けることなく具わること。 [73] 洞上:第[38]祖洞山悟本大師 [74] 累祖:代々の先祖。釈迦牟尼からの歴代の祖師たち [75] 見得:本来の実相を見て得心すること。 [76] 家風:教え [77] 満瓶:水などがいっぱいに入っている瓶。 [78] 出さず:瓶が宇宙全体なのでそこから何かがその外に溢れだすことはない。 [79] 飢人:人はだれでも「天上天下唯我独尊」(自分が宇宙そのもの)なので、何かが欠けているということはない。

[80] 田地:本来の面目、真の自己。 [81] 語黙動静:人が話をしたり黙っていたり、動いていたりじっとしていたりすること。ここでは人間のありとあらゆる活動 [82] かつて…ず:一度たりとも…でない。 [83] 具足:物事が十分に備わっていること [84] 尽大地:世界中。全世界。 [85] 一箇:人を物のようにみなしていう語。人ひとり。 [86] 洞家:洞山悟本大師の系統 [87] 参到:禅の修行に専念して、真理を体得する境地に至ること。 [88] 承当:真実をそのまま受け取ること [89] 一毫:一本の細い毛筋。転じて、わずかなもの。ほんの少し。

[90] 相承:次々に受け継いでゆくこと [91] 千生万劫:とてつもなく長い期間 [92] 模索:探す [93] 四大:宇宙の基本構成元素である地・水・風・火 [94] 五蘊:色(物質)・受(印象・感覚)・想(知覚・表象)・行(意志などの心作用)・識(心)の五つをいい、人間の精神活動を含めたこの世のすべての存在。 [95] 得:理解する [96] 欠少:不足。欠如 [97] 青原:第七祖青原行思禅師 [98] 枝派:支流である別派 [99] 通ずる:伝える

[100] 丹護[原文はゴンベンでなく舟]:赤色の染料 [101] 成らず:大きな鏡があり、そこに全宇宙・全存在が映っているが、その世界を極彩色で描き出そうとしても、描くことはできない。

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