伝光録 第四十六祖|丹霞淳《たんかじゅん》[1] 禅師
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【本則】芙蓉和尚に問いて曰く、「如何なるか、これ、従上[2] の諸聖の相授底[3] の一句」。芙蓉和尚が曰く、「呼んで、一句を作しきたれば、いくらか[4] 宗風[5] を埋没せん」。師は、言下において、大悟す。
【機縁】師の諱は子淳。剣州賈氏の子なり。弱冠[6] にして出家し、芙蓉の室において[7] 徹証す。初め、雪峯山に住し、後に丹霞山に住す。
【拈提】その最初の[8] 咨問に曰く、「如何なるか、これ、従上の諸聖の相授底の一句」と。仏仏、祖祖[9] が、換面改頭[1] 0しきたれども、必ず背面なく、上下なく、辺表[11] なく、自他なく、相授底あり。これを呼んで不空の空と名付く。すなわちこれ、諸人が実帰の所なり。個々[12] 、ことごとく具足円満せずということなし。しかるを、学者はおおく誤りて、「本来、無物」と思い、さらに「口にいうべきことなく、心に存すべきことなし」と。それ、かくのごとくなるを名付けて、古人は落空亡[13] の外道[14] とす。塵沙劫[15] を経るといえども、すべて解脱の分[16] なし。故に精細綿密にして、すべからく一切みなつきて、空空なりといえども、さらに空ずること得ざる底のものあり。
仔細に参徹して、もし一度、?得[17] し破せば、必ず一句を弄し[18] 得て、通じきたることあらん。故に相授底の一句といふ。時に芙蓉和尚が示して曰く、「呼んで、一句を作しきたれば、いくらか宗風を埋没せん」。実にこれ這箇[19] の田地[2] 0を、呼んで一句とすべきにあらず。誤りて名や言を下す。名や言は、雪上に鳥跡[21] あるに似たり。故に言う、「蔵身[22] のところに跡なし」と。
実に見聞、覚知[23] 、ことごとく止み、皮肉、骨髄はみな尽きて後、さらに何ものの跡とすべきかあらん。もしよく一毫髮も跡をなさざれば、果然として現れきたる。他[24] の知るところにあらず。故に法の伝承は相授くるのところにあらず。しかれども、この田地を会得するとき、呼んで以心伝心という。このとき、これ君臣道合す[25] という。妙叶兼帯[26] なり。しばらく道へ、「この田地は、いかなる形段[27] なりとかせん」。
清風が数[28] 匝り、縦い地を搖すも
誰が把りて、将に来て、汝が為に看せしめん
◆注◆
[1] 丹霞:仏像を燃やして暖を取った天然禅師ではない。
[2] 従上:今まで、これまで
[3] 相授底:相授は、師から弟子に伝えられ、つぎつぎ受けついでこられたこと。底は、関係代名詞に該当し、「~するところのもの」
[4] いくらか:どれほど多大に
[5] 宗風:修行などによって生ずる特有の形式
[6] 弱冠:[2] 0歳
[7] 徹証:大悟すること。
[8] 咨問:老師に意見を求めること
[9] 仏仏、祖祖:仏たち(過去七仏)と祖師(摩訶迦葉以来の師)たち。
[10] 換面改頭:表面は変わったようでも内実は変わらないこと。古い顔が新しい顔に変わり改まる意から。
[11] 辺表:辺は中に、表は裏に対する語で、ここでは内外・裏表。
[12] 個々:ひとりひとり
[13] 落空亡:悟りの世界を「空」だけだと思い込むこと。
[14] 外道:真理にそむく説。邪説。
[15] 塵沙劫:ガンジス河の岸辺の砂のことで、無数を意味する。劫は限りないほど長い時間の最長単位。
[16] 分:他と区別されるもの。状態や様子。
[17] ?得:深い悟りを得ること。
[18] 弄:手に入れる
[19] 這箇:これ。この。これら。転じて、仏性、本来の自己をさす。
[20] 田地:心の状態。転じて、本来の面目である所。本来の悟りの基盤。
[21] 鳥跡:言葉でいいあらわせない悟りの世界(雪)を言葉でいいあらわせると思い込んで使う言葉。
[22] 蔵身:身を隠すこと
[23] 覚知:自分の感じ方や考え、知識
[24] 他:他人
[25] 君臣道合:悟りの境地の違いをあらわす「洞山五位」に出てくる言葉で、悟りの世界と現象の世界とが無碍自在に融合していること。
[26] 妙叶兼帯:悟りの世界と現象の世界とが互いに他を兼ねそなえている。
[27] 形段:姿かたち。
[28] 数:なんども
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