伝光録 第四十祖 同安丕(どうあんひ)禅師 <前半>



【本則】
雲居(うんご)[大師が]、あるとき、[衆に]示して曰く。「恁麼(いんも)の事[1]を得んと欲せば、すべからく、これ、恁麼の人なるべし。すでに、これ、恁麼の人。なんぞ、恁麼の事を愁(うれ)えん」。[同安丕]師[2]、[この言葉を]聞きて、自悟(じご)す。

【機縁】
[同安丕]師は、いずれの許(ところ)の人なりを知らず。すなわち、雲居[大師]に参じて、侍者(じしゃ)となりて、年を経(へ)る。あるとき、雲居が上堂(じょうどう)[3]して曰く。「僧家(そうけ)[であるあなたたち][4]が、[悟りの見解を示すために]言を発し、気を吐く。[そこには]すべからく来由(らいゆ)[5]があるべし。[見解を示すときには]等閑(なおざり)をもってすることなかれ。這裏(しゃり)[6]はこれ、なんの所在[7]ぞ。[見解は]いかでか[8]容易なることを得ん。おおよそ、この事(じ)[9]を問うに、またすべからく些子(しゃし)[10]の好悪(こうあく)[11]を知るべし。乃至(ないし)[12]、第一に、[悟りの体験を伴わない自分の考え・思想]もってくることなかれ。もってきたりすれば、[本当の見解から程遠く]相似(あいに)ず。乃至[13]、もしこれ、有ることを知る底の人[ある程度悟った人]は、[何が大切で本質かを]自ら護惜(ごせき)[14]することを解(かい)すべし[15]。ついに[16]取次(しゅじ)[17]ならず。十度、言を発し[ようとするが]、[十度のうち]九度[まで]、[口に出すことを]休し去る。なんとしてか、かくの如くなる。おそらくは、[多弁は]利益なからん[ためであろう]。体得(たいとく)[18]底の人は、[その]心が、臘月[19]の扇子[20]のごとし。じきに得たり、口辺に醭(かび)[21]の出ずることを。これ[寡黙さ]、強いてなすにあらず。任(にん)運(うん)[22]は、かくのごとし。恁麼の事[悟り]を得んと欲せば、乃至[23]、なんぞ恁麼の事を愁えん。恁麼の事はすなわち得がたし」と。
[雲居大師が]示すのを聴きて、[同安丕]師は、すなわち、[自性を]明らめ、ついに一生の事[24]を弁じ[25]て、後に洪州鳳棲山[26]同安寺に住す。道丕禅師なり。さかんに雲居の宗風を開演[27]す。
*  *
あるとき、参学[28]の者が[同安]に問う。「頭(こうべ)に迷い、影[29]を認む。いかんが止めん」。
[同安丕]師が[答えて]曰く。「誰にか告ぐ」。
[それに対して参学の者は]曰く。「いかにして、すなわち是ならん[30]」。
[同安丕]師が曰く。「[他]人によりて、求めば、すなわち、うたた[31]遠し」。
また[参学の者が]曰く。「人によりて求めざるとき、いかん」。
[同安丕]師が曰く。「頭、いずれのところにかある」。
*  *
僧が問う。「いかなるか、これ、和尚の家風[32]」。
[同安丕]師が[答えて]曰く。「金鶏[33]が子を抱き、霄漢(しょうかん)[34]に帰り、玉兎(ぎょくと)[35]が懷胎し紫微(しび)[36]に入る[37]」。
*  *

僧が曰く。「たちまち客の来たるにあわば、何をもってか祇待(きたい)[38]せん。
[同安丕]師が[答えて]曰く。「金菓を早朝に猿[が]摘し去り、玉華(ぎょくか)を晩に[なって]後に、鳳(おおとり)が銜( ふく)み[39]きたる[40]」。
*  *
[同安丕師は]はじめ、先師[雲居大師]の示すところによりて、真箇(しんこ)[41]の田地を明らめ得て、家風を説くに、「金鶏が霄漢に帰り、玉兎が紫微に入る」という。また為人(いにん)[42]するとき、「金菓を日々、摘みもって去り、玉華を夜々、銜( ふく)み[43]持ちきたる」という。



[1] 恁麼の事:本来の面目、本当の自分  
[2] 同安丕:生没年不詳。 
[3] 上堂:長老や住持が法堂(はっとう)に上って法を説くこと。なお法堂は、住持が修行僧に法を説く道場。七堂伽藍では仏殿の後方に建てられている。他宗の講堂に当たるもの。 
[4] 僧家:僧侶に同じ 
[5] 来由:根拠、理由、背景 
[6] 這裏:ここに 
[7] 所在:であること。ここでは僧堂 
[8] いかでか:(如何でか)疑問を表す。どうして 
[9] 事:仏法の大義 
[10] 些子:わずかなこと。少しばかり 
[11] 好悪:物事のよしあし。何が大切で本質であるのかという区別。ここでは好き嫌いの意味ではない。 
[12] 乃至:同種の順序だった事柄を列挙する場合、その中間の事柄を省略することを示す。ここで省略されているのは、修行者が、師に見解を示すときに、記憶にたよって誰かがすでに使った言葉を使おうとするため、実の伴わない言葉が出てきてしまうこと 
[13] 乃至:ここで省略されているのは、老人の檜舞台での芸は子供の遊びとは雲泥の差があるように、修行者も見解を提するするときには、実の伴ったものでなくてはならないという戒め 
[14] 護惜:法門を保護し、大切にする。惜は、愛惜のことで愛して大切にすること 
[15] べし:ここでは「~できる」という可能の意味 
[16] ついに…ず:まだ一度も…ない 
[17] 取次:きままなこと 
[18] 体得:悟りを十分に会得して自分のものにすること 
[19] 臘月:陰暦12月の異称。 
[20] 扇子:冬場に扇子は不在なように、まったくないこと。あるいは、自己本来の面目はあらゆる活動を展開するが、何一つ動いていないこと 
[21] 醭:かび。酒や酢の表面にできる白かび 
[22] 任運:=任運自然。一切のはからいを捨てて、とらわれることなく、自然のままであること 
[23] 乃至:本則にあるように、省略されているのは、「すべからく、これ、恁麼の人なるべし。すでに、これ、恁麼の人。」 
[24] 一生の事:悟りの世界 
[25] 弁ずる:解決する 
[26] 鳳棲山:江西省の南昌(なんしょう)市近くの山 
[27] 開演:開示演説の意。説きあかし、細かに述べること 
[28] 参学:仏教を学ぶこと。ここでは禅の修行をし悟りの体験を深めること [29] 影:実体のない妄想。ここでは演若達多(えんにゃだった)が頭を失却すの逸話への言及 
[30] 是ならん:「ではどうしたらよいのですか」ということ 
[31] うたた:程度が増大するさま。ますます 
[32] 家風:禅の修行や指導をするにあたっての独特の流儀ややり方 
[33] 金鶏:金鶏星(きんけいせい)の中にすむという想像上の鶏。禅宗の祖、達磨をたとえていう 
[34] 霄漢:おおぞら。高い天 
[35] 玉兎:月の中に住むという想像上のうさぎ 
[36] 紫微:天宮。天帝の居所 
[37] 入る:全体で、太陽がのぼり、月が出るということ 
[38] 祇待(きたい):きちんともてなすこと 
[39] 銜み:口にふくむこと 
[40] 来る:全体で、朝に客が来たなら朝にふさわしいもてなしをし、夜なら夜にかなったもてなしをするということ 
[41] 真箇:真実であること。大悟大徹の境地 
[42] 為人:師が弟子を指導すること。また、その指導のために用いる方便 [43] 銜み:口にふくむこと

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