2023年の目標を語れない
人生は、元気になることもある。
休んだり、遊んだり
または、頑張ることで元気になることもある。
だから当然、元気にならないこともある。
元気になることがある、という事実を受け止めるならば
その逆も然り、と思う。
少なくとも、わたしの場合は。
明るい一等星だけを追い求めたいなら、
どうかわたしのところへはたどり着かないでおくれ
わたしはいつも、月の裏側の想像ばっかりをしている。
見えないほうの話。
*
書きたい気持ちと
書けない気怠さをきっちり半分ずつ抱えながら、
たなっちが頑張って走っているのを見て、わたしもがんばろ、と思ってパソコンの前に座った。
静岡から東京まで走るって、
それはわたしが生まれた土地から、居住している土地まで走るということで
知っている地名がいくつも出てきて、息が止まりそうだった。
線路沿いを10キロ、歩いて帰って3時間も4時間もかかった絶望も覚えている。
だからこれは、みょうになまなましい勇気だった。
努力って、勇気だ。
誰かの努力が勇気になって、めぐってゆく。
わたしもそうして受け取って、できることならば次の誰かへ、と願う。
そんな大層なことを願っていいのか、と不安にも思うのだけれど
「過大評価は、過小評価と同じくらい迷惑だ」というせりふを思い出したりしちゃう。
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そんなふうに、他人の手を借りながらようやく書いたりしている。
「お年玉を送ったよ」というせりふにも、ずいぶん後押しされた。
いや、ゲンキンだなって思うけど。
「よっしゃ頑張るか」の理由にくらいさせてくれよ。
うるさいな、ゲンキンで何が悪い。
ようやく書いているわたしは、2023年の目標を語れない。
思っていることはいくつかあって、お正月のうちにいくつか実行したり、
まあとにかくいろいろありはするのだけれど、きちんとまとめるって面倒だ。
それをまた、振り返りながら生きてゆくのも面倒だ。
人は、元気になることもあれば、ならないこともある。
そして、元気にならないタイミングは節目ーーー年始とか、誕生日とか、抱負を語れないタイミングに当たってしまう、なんていうことも存在するのだ。
元気なことは、元気なときにすればいいよ。
もらった勇気は繋いでゆきたいけれど、
それを繋ぐ方法って、たぶん勇気とか努力とか、眩しさじゃなくって
わたしはステージ裏で手を震わせているあなたから、いろいろ教わったのだと思う。
答えは、目に見えないところとか、見たくないところとか、頑張って見つけなければいけないところに、あったりするのだ。
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ただ、「努力できなかった」という罪悪感は、「努力した」という安堵感より重たくのしかかってしまうような気がするのはなんでだろう。
いつもそう。
できなかったことと、足りなかったことばかり考えてしまう。
だから今日はひとつ
「2023年の目標を語れない」という言葉を
のんびり紡げたことで百点。
ああ、今年はもっと
目標とか夢とか掲げずに、ひたすらわがままに、書いたり弾いたりしたいなあ。
※now playing