すてきだね (3行ではなくなってしまった日記)
noteの #3行日記 というお題に救われる。
ああ、3行でいいんだ。
ああ、日記でいいんだ。
いやはや、誰だよ
「日記じゃなくて、エッセイを書くんだ」なんて言ってたやつは
最近は、23時~24時のあいだに「今日のnote」を更新していることが多い。
「毎日更新していてエライね」って友達は言ってくれたけれど
「追い込まれないとやらない」だけである。
変わらんよ、人は。
エラくなんてなれないよ。
毎日、書かなくなってしまった自分に会わなくなるのが、怖いだけ。
らくちんなほうを、選んでいるだけ。
22時54分の目覚まし(あるいは、23時2分の目覚まし)で昼寝から目を覚まして、Twitterを巡回しながら目を覚ます。
文字を追うと、目が覚める。
Twitterの短文って、読んでるのか眺めているのかわからなくて、なんだかちょうどいい。
今日は、おじさんが歌をうたっている日らしい。
22時からか、ってことは、まだ生配信してっかな~と思って覗いてみる。
おじさんの、歌が好きだ。
スガシカオと同じくらい、いやちょっとスガシカオのほうが上かもしれないけれど
並んでる。ほんとに。それくらい。
それが、わたしにとって、スガシカオと山作戰だと思う。
◆
「一緒に」「楽しく」「良い音楽」
それぞれの言葉の解釈が、すべて違うと思う。
最近、友達とそんな話をした。
言葉って残酷だ。
「一緒に」「楽しく」「良い音楽」をやろうね、って言って
誰かはクラシックを、誰かはジャズを
誰かは音を、誰かは言葉を
誰かは自分を、誰かは他人を
それぞれの、比重が異なってゆく。
何を以て「一緒に」「楽しく」「良い音楽」なんだろうか。
言葉を、疑わなくてはならない。
そして、言葉を諦めてはならない。
◆
おじさんの、この言葉が、喉の奥に引っかかっていた。
感動を、言語化することは難しい。
話せば話すほど、嘘っぽくなる世界線。
「うまく言葉にできなくても、言葉にしよう」
「言葉にできないことを恐れて、何も話さないのはやめよう」
そんなふうに、言い訳していたことにも、気づいている。
必要な言い訳だったとも、思っている。
でも、「一緒に」とか「楽しく」とか、「良い音楽」とか
言葉だけでは、同じ色や世界を見出だせないときには
もっともっと、細分化を、言語化が必要なのだと思う。
言葉にすることを、諦めちゃいけない。
いまは強く、そう思っている。
でも、言葉にできないからって、感動を否定することもない。
「すっげ~~~~~」「かっけ~~~~~」っていう自分も、信じてあげたい。
◆
おじさんの音楽の、何が好きなんだろう。
もし誰かが「ギターが好き」とか言ったら、ぜんぜん違う景色を見ていると思う。
おそらく、歌に比重がある。
そして、言葉だと思う。
「言葉のための歌」であることかもしれない。
話したいことがあるんだと思う。
救いたいことと、救われたいこと
許したいことと、許せないことがあるんだと思う。
言葉と歌で、人と繋がって、感謝をしているんだと思う。
わたしよりも、うんと深いところで、言葉と感情を細分化しているんだと思う。
いや、それは深いとか浅いとかではなくて、
生まれ持った性別とか育ってきた環境とか、そういうプロフィールの違いで、上下関係ではないはずだ。
でも、わたしはおじさんの言葉を、歌を通して聞くたびに、「ああ、やられたなァ」と思う。
撃ち抜かれた感じになる。
こうやってわたしの心臓を、懲りず何度も、そして毎回撃ち抜いてくれるのか、山作戰とスガシカオなのだと思う。
そうだな、言葉と歌だと思う。
おじさんと話していても、「いやこのオッサン良いこと言うな」って、まったく思わないわけでもないが、話しているとケッコーふつうのオッサンだ。
むしろ、どうしようもないおじさんだったりする。そこが好きだ。
おじさんというのか、「静岡に住んでいるおじさん」の略なのである。
静岡は、わたしの生まれ育った土地なので、感覚的には「親戚のおじさん」に近い。
おじさんの言葉は、上質な小説のようで、孤独で独りよがりでどうしようもない人の味方である。
そして、人を愛している。
わたしはおじさんの歌と曲に”感動”する。お守りみたいなものだと思う。
だからわたしにとって、良い音楽っていうのは「親近感や尊敬できる言葉を、聞かせるように歌うことによって、感動できること」だと思う。
良い歌詞でも、聞こえないこととか、何言っているかわからないことってあるからね。
楽器の音がデカすぎたりさ。
「良い音楽」の条件が、「演奏や楽器」のほうに比重が大きかったりすると、歌は言葉ではなく、楽器のひとつとなってしまう。
歌は、歌であるのが好きだと思う。
なんていうと、不思議だ。
わたしは、「ピアノだけ弾く」というスタイルで、10年近くライブ活動をしてきたのに、大切なのは子どばで、感情で、尊敬や感動だった。
わたしは、言葉を飛ばすためのピアノが好きで、言葉以上に感情を揺さぶるピアノを、愛していたのかもしれない。
◆
ひとつひとつ、細分化してゆく。
そうして、わたしはわたしを知り、世界を精査してゆく。
できれば、「そうだね」って言ってくれる人と生きてゆきたい。
そうじゃなくても、「すてきだね」と言ってくれる人と、手を取りたい。
そしてわたしもできるだけいろんなことを、むりしたり苦しくない範囲で、「すてきだね」って言いながら、生きてゆきたいと思っている。
ちなみに、あまのさんの写真の好きなところっていうか、
あまのさんという存在を信用しているっていうのも大きい。
彼は可愛いものが好きで、「可愛い」の趣味が合う(自分が好きなものをプレゼントすると、だいたい喜んでもらえる)
そして、カッコつけの見栄っ張りなので、彼が撮影して編集した写真は、最大級の「可愛い」と「カッコ良い」であり、それがわたしの「好み」だというところが大きい。趣味が合うってはなし。
あと、あまのさんの風景には物語がある。余白がある。
余白に、物語を与えることができる。
もしかしたら、こういったエッセイに使うことを前提とするならば、「何にでも使えるけれど、具体性に欠ける」のかもしれない。
でも、あまのさんはエッセイの挿絵写真のために風景を撮っているわけではないので、なんの問題もない。
物語の余白を、愛している。
喜劇と悲劇は、ぎりぎりのところで線を引かれる。
そのどちらにも見えるような景色が、わたしは好きなのだと思う。