ピアノ日記と、わたし
すごく久々に”お出掛け”してきた。
友達にはたまに会っていたけど、だいたい家まで来てもらっていた。
4月に入ってから電車に乗った数は、片手で数えられるくらい。
友達と”お出掛け”したのは、本当に久し振りだ。
家の外に出て、たくさんのものを見て
10年来の友人と、あまり気を遣わずたくさん話して
すごくほっとした。
久々の外出で、すごく疲れたはずなのに
なんだかとても、満ち足りた充足感。
そう、帰ってきたら疲れる。
そんなことは最初からわかっていた。
どれだけ充実して、満ち足りていても、身体は正直だ。
わたしが清く正しい人間ならば、朝のうちにnoteを更新して家を出ただろう。
それなのに、どうしてわたしってば、清く正しくないんだろう。
帰宅後、パソコンの前に座っている。
ごはんを食べたら眠くなるので、先に記事を書く作戦だ。
気持ちはすごく元気だけど、
からだは疲れたし、おなかも空いたし
なにを書いていいかサッパリわからない。
一応、文章を書くときには先にテーマを設定しているけれど
テーマも思いつかないし、
ストックしているネタの中で「おなかが空いているときの集中力で書けそうなもの」はなかった。
仕方がないから、先にピアノ日記を弾こうか、と思いついた。
毎日の記事更新は、文章を1本以上+ピアノ日記を1本と決めているのだけれど
必ず、文章を書いてからピアノ日記を更新するようにしている。
なぜだかずっと、その順番で続けてきた。
ピアノ日記は、おなかが空いていようが、おなかが痛かろうが、
何のテーマも持っていなくても、ピアノの前に座れば完成させることができる。
基本的には手癖の集合体なので、あんまり時間をかけて考えたりしない。
だから、このコンディションでもピアノは弾ける。
「でも、ピアノ日記は”ご褒美”だから……」
頭の右の後ろの方から、聞いたことのないわたしの声がした。
ご褒美?
いままで、そんな風に思ったことはなかったのに。
ピアノが、わたしの人生でご褒美だったことは、一度もない。断言できる。
ピアノに憧れて習い始めたわけでもないし、腐れ縁のように、捨てられなかっただけだ。
ピアノ日記をはじめて、良い距離感を保てるようになったとは思っていたけど
ご褒美だなんて、感じたことはなかった。
でも、「ご褒美」と言った。頭の、わたしの声が。
4歳から18歳までを、ヤマハ音楽教室で過ごした。
18歳から22歳の大学時代は、軽音部
大学を出てから、30歳を過ぎるまで、音楽活動やバンドを続けてきた。
バンドの休止後は、のんびりペースで弾き語りをやっていた。
音楽はわたしにとって、なんといえばいいのだろう
自分で決めたくせに、「やらなきゃいけないもの」だった。
そして、心から「やりたい」と思って向き合えた期間は、結構少なかったように思う。
最初は「やりたい」と思った曲も、結局は練習がめんどうになってしまうことが多かった。
いま、わたしと音楽の接点はピアノ日記だけになった。
ピアノ日記はわたしが、「やると決めたもの」で
その代わりに、「弾きたいことしか弾かない」と決めた。
きっと、「毎日更新する」というルールを捨ててしまったら
わたしは、ピアノを弾かなくなる。
腐れ縁なんて言っても、それくらい薄情な関係なんだと思う。
それでも、いま
強い意志や、感情、目的地
なにも持ち合わせていなくても
手癖と経験値だけで、「わたしが美しいと信じたもの」を
自由に演奏すること。
そんなことが、いつのまにか「自分のご褒美」になっていたのかもしれない。
明日は、「ピアノ日記めんどくさいな」て思うかもしれない。
わたしは薄情だし忘れっぽいから、そんなものだろうと思う。
この夜のことも、忘れてしまうかもしれない。
それでもいい。
それでも構わないから、
這うように、ただ切れないようにと必死に、ピアノと向き合ってきたわたしが
一瞬でも、気の迷いでも、ピアノを”ご褒美”と思えたこの感覚を
宝物箱の中に、しまっておきたいと思った。