ダリアの首を、落とせるか
新宿で、ダリアを摘んできた。
新宿マルイの一角が、ダリアで埋まっていた。
話を聞いてみたら、福島にある「ダリア摘み放題」さんが、出店してきているらしい。
水の入った缶を買って(ダリアが好きなものが入っている、と言っていた。お砂糖とか)
そこに、好きな花を選んで挿してゆく。というものだった。
わたしも、ダリアを摘むことにした。
*
ダリアは、どれくらいあっただろう。
数百、だろうか。
うまく数えられないけれど、たくさんあった。
そこから好きなものを選ぶって、なかなか難しい。
となりを歩いているお姉さんの缶の中身はすごくすてきなのに、わたしの缶は冴えない。
というような気さえしてしまう。
かわいさ、色味も大切だけれど
ついつい茎の長いものや、咲き始めのものを選んでしまう。
一緒にいられる時間が長いように、祈りながら。
「ダリアはね、どうしてもここから枯れちゃいますから」
いろいろ悩んでいたわたしに、店員さんがそう声をかけてきた。
“ここから”というのは、茎と花の境目とでも言えばいいのだろうか。
人間で言うなら、耳の裏にあたるような感覚だ。
「枯れてきちゃったらね、ここで切ってお皿に浮かべてあげてください。
そうしたら、そのあと数日は楽しめますから」
笑顔で告げられたので、笑顔で頷いた。
だけど、心の中はそわそわしていた。
わたしはきっと、ダリアを切れない。
それは、花を浮かべるべき美しいお皿がないから、だと信じたい。
でもきっとそれだけじゃなくて
「もう少し大丈夫だろう」なんて、夢見がちで無責任なわたしがいる。
1年近く、切り花と暮らしている。
完全に枯れてしまう前の花を捨てるのは、いつも少しつらい。
つらさをくぐり抜けるための言い訳とか、言い回しとか、心の準備がうまくなってゆくだけで。
だから、うまく笑えていたかわからない。
ほんとうは不安だった。
というか、きっとできないとすら思っていた。
わたしは、ダリアの首を落とせない。
*
花を切る用のハサミで、茎の先端を落とす。
花屋で出稼ぎをしていた、というひとに教えてもらった。
先っぽから腐って、栄養になるべく土に還ろうとしてゆくから。
傷んだ部分を少しでも切るといい、と。
ついでに葉っぱとか、咲かないつぼみとか、間引いていくといい。
というのも、わかっている。
ずいぶん上手にーーーそれは花に対してではなくて、気持ちに対してーーーできるようになったと思う。
でもわたしは、あゆのことを忘れられない。
*
「ハチミツとクローバー」を愛しているが、24話は印象的な物語のひとつだった。
だって先端の葉は元気だから、というのが、あゆの言い分だった。
そりゃそうだよね。
プランターのシソは、昨日まで元気に育って、伸びようとしていたのに。
だからあゆは、折らなかった。
この物語の終わり、シソは自分の重さに耐えかねて土の上でのたうっている。
「母さんの言う通りだった」と、あゆは言う。
そしてあゆは、折れたシソと自分の恋を重ねてゆく。
その男が、別のひとを見ていることに、とっくに気づいていたのに。
少しでも、心がこちらにかたむかないかと
願う心を捨てられない、あゆ自身に。
そして、「折るべきだった」と気づきつつある。
きっと、気づいている。
認められないだけで。
どうしても、
バカのひとつ覚えみたいに
どうしようもなく
この言葉が、いまでもわたしの心臓を刺している。
*
「ハチミツとクローバー」に出会ったのは10代のときで
あのころと比べたら「おとな」というカテゴリーに属しつつあるわたしだから、
どうしようもなくても、泣かなくなったかもしれない。
どうしても、という気持ちと折り合いをつけられるようになったかもしれない。
でも、バカのひとつ覚えみたいに
あゆの言葉を、忘れられない。
おとなになるということは、あまり痛まなくなることかもしれない。
痛いけれど、平気だと言ったり、気遣ったり、折り合いをつけて、へらっと笑うことかもしれない。
花をきれいに保つ方法も、少しくらいは知っている。
正解も、わかっている。
わたしは、ダリアの首を落とすべきだ。
でもきっと、落とせない。落とさない。
それは、夢を見ているわけでも、信じているわけでもない。
わたしは、わたしの中のあゆを、殺したくない。切り落としたくない。
一生懸命の恋に、思いに、青春に、
信じたくて、夢見て、そして傷ついたひとりの少女が、わたしの中で生き続けてくれますように。
そんなふうに思っているうちはきっと
わたしは、ダリアの首を落とせない。
※now playing