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こちら側のミュシャ

 ミュシャの展示に、連れて行ってもらった。

 本当は、「次はケーキを食べに行く」という約束だったのだけれど、わたしといえば「すべてのケーキを愛している」という類の民で、「あそこのケーキ屋さんに行ってみたかったの!」みたいなときめきは皆無で、空を仰いだ。すまん。
 代わりに行きたかったところで、「ミュシャを見たい」と言ったら、「ミュシャ大好物!」と返ってきて安心した。

 自分から誘っておいてアレだけれど、展示の内容を全然チェックしていなくて、これはミュシャの絵の実物があるわけじゃなくて、動画がメインだったので、驚いてしまった。なるほど。
 感想については、友人がまとめてくれていた内容がわかりやすかったので引用する。

 感想を素直に言えば、なるほどこういうものかという新しい美術展示の形に対して一定の理解はしたものの、同席したクリエーター仲間とお茶をしながら、そのパフォーマンスと設定されたパラメーターに対しては物足りなさを感じたということで意見が一致した。

 ミュシャ初体験の人と何度か見ている人と、絶大なるファンの人という各階層にそれぞれ気を配った結果、こじんまりとまとまってしまったように見えてしまった。

 ただこれは、かなり尖った意見であって、ミュシャの魅力は十分に堪能できるし、演出をやりすぎると苦手な人は3D酔いみたいなことを起こしてしまうだろうから、多くの人が気軽に楽しめるという意味では、よくできた構成と演出だったと思う。

めけめけ "ミュシャとの出会い~7年ぶりの再会とアイアンマン"

 少し話が逸れるのだけれど、いま買ったコーヒーの味が、非常に凡庸だった。美味しい。軽やかで適度な重さで、コーヒー初心者でも飲みやすく、ブラックでも楽しみやすい。
 じゃあこれを、誰かに勧めるか……と言ったら、「これじゃなくてもいいよなァ」となる。これだったら、コンビニコーヒーでも充分だと思う。

「好き」の入り口は「なんとなく」でいいと思う。「嫌いじゃない」とかね。
 ただ、そこから深みにハマってゆくには、「その他大勢との違い」とか、「そこにしかないもの」が求められてゆく。
 なーんてね。わたしも肝に銘じなくては……と思った。誰に、何を、どうやって話すのか。

写真じゃ全然伝わらないけど、これがスクリーンにめちゃくちゃデカく表示されてるの
一見の価値アリでした。

 そんな感じで、総じて同じ感想を持った反面、めけはわたしと全然違うところを見ているので、おもしろいなあ、と思う。
 なぜ、わたしを引き立ててくれるのか……謎であるくらい、めけとわたしは似ていないと思う。珍獣だと思われている、と言われたならばまだ納得できる。


 めけは、ミュシャを「7年振り」と言っていたけれど、わたしは3年振りだった。
 2021年、冬。
 絶望的な冬だった。
 2021年の夏にコロナに罹患し、ほとんど歩けなくなり、しゃべれなくなった。この頃、どうやって暮らしていたのか思い出せない。何をしても体調が戻らず、「休職しましょう」と言われたのが、この冬だった。
 それは、果てしない絶望だった。
 とてもじゃないけれど、「休めるラッキー」なんて思えなかったし、役立たずのレッテルを貼られたと思った。情けなくて、悔しくて……12月の最終出勤日、逃げるように会社を後にしたことを、今でも覚えている。身体もアタマも動かなかった。言い訳のひとつも、謝罪のひとつもうまくできなかった。

 ミュシャを見に行ったのはその12月で、場所は新宿だった。確か大晦日で、わたしはひとりで、お金なんて無駄に使っている場合ではないのに、電車に乗った。
 3年しか経っていないのに、あの頃のわたしは今よりうんと卑屈で、何かを「好き」というのにも一苦労だった。「わたしよりもっと詳しい人がいるのに」と思ったりして
 でもどうしてもミュシャが見たくて、そこでミュシャが「35歳の頃は工場で働いていて、そこから絵描きとして引き立てられるようになった」というエピソードを見て、なんだかじんわりしてしまった。そのときわたしは、34歳になったばかりで、恐れ多くも没後約80年の偉大な画家に、人生の希望を見出した。ああ、わたしも諦めちゃいけないって……
 それを忘れてはいけないと思って、なけなしのお金でタペストリーを買った。2022年に引越しをしたけれど、今でも部屋の特等席に飾ってある。

これは2022年の5月。前の家。
味覚も嗅覚もバグって、花ばかり買っていた。

 そんなわけで、わたしにとってのミュシャは希望の原点とか、原石みたいな存在なのである。
 そのあと、2023年と2024年の12月も休職を余儀なくされたわたしだけれど、いま生きている。状況は変わらずとも、少しだけ身軽になれた。
 けれども、情けなかった気持ちも、ゆめゆめ忘れてはならぬと思う。「良い経験だったね」なんて言ってやらない。絶対に。
 だからこそ、今回も「ミュシャ」というワードだけに惹かれてホイホイと見に行ってしまった。たぶん次も、見かけたらそうすると思う。

 忘れてはいけないことを、忘れずにいることは難しい。
 江國香織さんの「時間は敵だ」という詩があるのだけれど、本当にそうだなあと、しみじみ思う。どんな痛みも、形を変えてしまう。
 そのことを、いちいち悲しんでいるわけにもいかなくて、じゃあどうやって記憶に留めるかと言えば、預けるのだと思う。例えば、ミュシャをトリガーに。鋼の錬金術師で、エドが銀時計に刻んだみたいに。


 ミュシャを見たあとは、表参道を歩いた。
 渋谷から表参道の道のりは少し懐かしくて、わたしは4年ほど表参道で働いていた。冬のイルミネーションは、毎年見ている。

 実はわたしの好きな人も表参道のイルミネーションを見ていたりしたらしい。去年以前の話になるけれど、スガシカオとか、ポケモンで有名な増田さんとか
 なんでオッサンは表参道が好きなんだろう……と考えたら、表参道には何か、普遍のゴージャスさがある。という結論に至った。
 例えば下北沢は、小田急の踏切がなくなり、路地裏が一掃され、いまではちょっとオシャレなTSUTAYAなんかがあったりする。もちろん、南口商店街の方を歩けば、「懐かしの下北沢」と思うけれど、現在の南口商店街は、下北沢駅の南口と隣接していない。変化が寂しくないといえばそれは嘘だけれど、今のハイブリッドな下北沢も、わたしは好きだ。

 それと比べると、表参道はずっとゴージャスな気がする。
 わたしの年齢だと、表参道ヒルズができる前のことは知らないけれど、ここ十年で大きな変化は感じない。もちろん、裏道を入ればそうは言えないのだけれど、あの道だけは……
 交番の裏のラルフローレンには、元彼と行った。15年くらい前のことだと思う。
 なんとなく、表参道にはそういう安心感がある。別にパジャマで歩いても恥ずかしくはないけれど、ちょっと深く息が吸える。わたしにとって「知っている街」であり続けてくれるような。

イルミネーションがついた瞬間
めけは煙草を吸っていて、わたしはポケモンGOをしていたので、点灯の瞬間は見落とした。

 スターバックスが満席だったので(アクセス表参道店、神宮前4丁目店ともに)、駅のディーンアンドデルーカでケーキを食べた。念願のケーキ。

 ディーンアンドデルーカの塩パンは美味しい。
 そのことを、キミに伝えそこねたことが悔やまれる。

「雪だるまのケーキ、ふたつ並べて写真撮ろうよ」と言ってくれためけ。


 めけと自分の違いが面白くてここまで書きました。
 めけがあの日のことを書いてくれなかったら、わたしはこんな話をしなかったと思います。ありがとう。
「君が書かなきゃ書かなかった物語」なんと最高だろう!

▼めけの記事。同じ日を起点に、ここまで違う

▼めけとの往復書簡。わたしがサボって書いていない。すまん。

▼ディーンアンドデルーカの塩パンは美味しい

▼同じ日、イルミネーションの話

▼江國香織さんの詩集。二十歳の頃から今まで、何度引越しても手放さなかった本のひとつ



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松永ねる
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