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ペーパードリップと、わたしだけの勇敢な時間

コーヒーをペーパードリップするようになって、もう10年以上は経つと思う。
二十歳か二十一のときに「コーヒーを淹れる用のケトル」をもらって、まだ健在だ。
あのときから、ペーパードリップをしていたんだと思う。

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口の細いケトルは、いまでも「コーヒーを淹れるときだけ」に使っている。
お湯を沸かすときは、大きなキリンのケトルを使って、そのお湯を、このケトルに移す。
二十歳か二十一のわたしは、「あのキリンだとお湯がこぼれて、上手に淹れられない」とごねていたんだと思う。

ペーパードリップするようになった記憶は曖昧で、
たぶん、当時の恋人が、そういうことが好きだったんだと思う。
手挽きのミルで豆を挽いているようなひとだった。
あれはすごく疲れるし、わたしには真似できなかった。

赤いケトルだけが、ずっと残っている。
何度、引っ越ししても
ずっと、一緒にいる。

「ペーパードリップを続けよう」と思ったときのことは、いまでもはっきり覚えている。

その後、別の人と一緒に住むようになったときに、コーヒーメーカーもついてきた。
でも、単身者用なのか、二人暮らしもぎりぎりできるのか、そういう広さのアパートでは、キッチンにコーヒーメーカーを置くことができなかった。

ペーパードリップは、少し手間だ。
インスタントコーヒーとか、コーヒーメーカーのほうが、らくちん。
それは、わかっている。
ペーパードリップのコーヒーが美味しいと信じている、そういう信者でもない。
コーヒーは、酸味がきつくなければ、大体美味しいと思っている。
薄ければ麦茶の味とだいたい同じだ、とも思っている。
でも、「自分で淹れたコーヒーが世界一美味しい」なんて、そんなことは思っていない。

新しい暮らし、ふたりで借りた新しい部屋。

不慣れな二人組が、その暮らしに慣れる前に、わたしは手を怪我してしまった。
利き手の右手。

しばらくは、ドアノブも、蛇口も、安心してひねることができなかった。
その後数ヶ月間は、お箸が持てなかったので「ラーメンを食べること」を目標にして生きてきた。

新しいその部屋で、わたしは居場所を失いつつあった。
何もできない、わたしがここにいていいのだろうか。

当時は、音楽活動…ライブもまじめにやっていたのだけれど、ペースを落とさざるを得なかった。
ピアノは、なんとか弾けるようになってきたけど、「痛みに耐えて」という状態だった。
すべてが、「痛みに耐えて」の生き方だった。

耐えることは、苦しいけど容易かった。
我慢は、できる。

でも、この先を思えば「耐えること」が正義には、ならない。

それが、苦しかった。
「弾いてはいけない」とか、「身体を大事にする」と言われたら、ほとんど何もできなかった。

家事だけは、すがるように続けていたけれど、ファスナーを引っ張ったり、洗濯バサミを掴んだりするのも「痛みに耐えて」だった。
耐えることはできる。
何もしないことは、怖い。
でも、「耐えてしまっている自分」は、正しくないような気がして、
それでも、耐えることは辞められなかった。

コーヒーのことだけが、明るい記憶だ。

苦しかった。
つらかった。
それすらも自覚できなかった。

コーヒーだけは、わたしのための時間だった。

当時一緒に住んでいた人もコーヒーを飲んでいたけれど、
「コーヒーをペーパードリップする」、それだけは、わたしの宝物のような時間だった。

余裕のある女のフリをするために、コーヒーをドリップする

わたしは、そう信じていた。

コーヒーメーカーでも、インスタントコーヒーでもよかった。
でも、やかんにたっぷりとお湯を沸かして、専用のケトルにお湯を移す。
ゆっくりと、お湯を注ぐ。
なぜだかこのとき、手が傷んだ記憶は、残っていない。

ゆっくりと、ぽたぽたと、落下する。
薄い液体が連なって、黒い沼のようなコーヒーになってゆく。

わたしは換気扇をまわして、煙草を吸いながら、それをじっと見ている。

わたしは、コーヒーをペーパードリップしちゃう。
大人で、余裕のある女なのよ
そんな、魔法をかけていた。

いまでも、時折この魔法を思い出す。
もう、毎朝思い出したりはしないけれど、時折。

いろんなことが面倒だな、という感情に圧されてしまうことがある。
逃げるように、コーヒーを飲みたいな、と思う。
ペーパードリップは面倒だな、と思ってしまうときも、ある。
インスタントコーヒーに、逃げてしまう日もある。

それでも、
えいっと気持ちを振り絞って、お湯をわかす。

お湯が湧いているあいだの暇つぶしさえできれば(だいたい、掃除とか皿洗いをする)、あとは落とすだけ。

わたしは、ゆっくりとお湯を落とす。
そうして、煙草に火をつける。

アメリカンスピリットという煙草は、ゆっくりと燃える。
最初のお湯を落としたあとに火をつければ、半分ほど燃えたところで、コーヒーが落ちきる。
わたしはマグカップに牛乳を半分ほど淹れて、それからコーヒーを注ぐ。

家ではコーヒーをたくさん飲んでしまうので、牛乳で割るようにしている。
そして、淹れたての温かいコーヒーに対しては、「マグに牛乳を淹れるのが先」のほうが、美味しいのだそうだ。
「あの成分がどうのこうので」と、同居人が説明してくれていた。
理由は覚えていないけど、確かに牛乳が先のほうが、美味しい気がする。

満たされたマグカップの水面を見つめて、もう一度煙草を吸う。

これでよかった、とわたしはいつも、安堵する。

いまでは、同居人もよろこんでコーヒーを飲んでくれている。
「ペーパードリップ」は、わたしの仕事で、同居人は代わりにコーヒーを淹れてくれることはない。
子供みたいなわたしは「わたしの仕事」とか「任されている」という気がして、それも悪くないと思っている。

あなたに任されて、嬉しい。
あなたがよろこんでくれて、嬉しい。

そんなふうに思っている。
それも嘘じゃない。

でも、本当は「わたしだけの勇敢な時間」を過ごすための時間だった。

わたしは時折、そのことを確認する。
ひとりのキッチンで。
いろんなものを見つめながら。




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