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非日常と海

海は、いつでも特別だった。

静岡の山奥の、川のとなりで育った。
泊まりにきた友達が明け方に、「雨が降っているの?」と尋ねてきて、驚いたことがある。
それは川の流れる音で、毎朝当たり前に聞こえるものだった。上流から下流に、言葉通りに流れてゆく。
上流の石は大きく、下流まで流れた石が削れて小さくなっていることを、本能的に知っていた。

小さな川は雨で茶色く濁り増水し、晴れが続けば干上がる。
それでも、決まったスポットでは大抵深い水が溜まって、夏はそこで泳いでいた。
蔦に捕まって川へと飛び降りる、ターザンごっこもやった。
加えて、スイミングスクールにも通っていたので、わたしにとって泳ぐといえば、川かプールだった。

海は、スイミングスクールのイベントで連れて行ってもらった。
潮干狩りとか、何度か泳いだ記憶がある。
スクール水着の隙間に砂が絡んで、あまり良い記憶ではなかった。
おとなになったいまだからこそ、「アアそうだよなァ」と納得できるのだけれど、そもそも非日常なイベントが好きではなかったのだ。遠足とか、修学旅行とか。

もしかしたら母親は「スイミングの潮干狩り、行きたがってたよ」と言うかもしれないけれど
あれは、「行かなくてはいけない」とか「苦手を克服しなければいけない」と思っていたからかもしれない。
去年も行ったから、今年も行かなきゃ、と思っていた。
夏休みのキャンプとかは、そうだった気がする。

兎にも角にも、海には良い印象がなく、行ったこともあまりない(川で泳いでいたので行く必要もなかった)
というのが、海に対するわたしのプロフィールだった。

おとなになって、海へは何度か行った。
大学生のとき、江ノ島に行った。なぜだか、江ノ島で夜明かしをするというイベントだった。
わたしは眠くて、片瀬江ノ島駅の海岸のすみで座っていた。

横浜にも、何度か行った。
人生でふたりだけいた恋人と、それぞれ1度ずつ行った。気がする。
あまり覚えていない。
海を見て、はしゃいだ気もする。

恋がうまくいっていないとき、ひとりで逃げるように葛西臨海公園に行った。
あそこも、なんだか海だった気がする。波を見た気がする。
これもあまり覚えていない。
あれは本当に海だったのだろうか。とにかく、水があったことは覚えている。

静岡に、ピアノを弾きに帰ったこともある。
サリーズカフェは海の前にあって、ああ静岡にも海があるんだ。と思った。
静岡県って、だいぶ海に面している。
サリーズカフェには、また行きたい。

20才から30才のあいだの10年間は、そんな感じだった。
そもそも、家とスタジオとライブハウスを行き来するので手一杯だった。

2001年4月
わたしは、”非日常”を求めていた。

遠足とか、修学旅行とか、準備が必要なものとか、メンツが多いとか、日付が決まっているとか、強制力があるとか、そういうのは面倒だったけれど
おとなになったわたしは、ひとりでどこへでも行けることに気がついた。
むかし、恋人に手を引かれて歩いた新宿も原宿も表参道、もうひとりで歩ける。
そして、ひとりで”決まっていない散歩”をすることの心地よさに、気がついていた。

初めての場所で誰かに挨拶をしなくちゃいけないとか、時間に遅れちゃいけないとか、
そういうのじゃなくて

わたしはずっと、消えたかったんだと思う。
頭の片隅、どこかで
消えることで、身体中の血液をなんとか循環させ、それが生きることになると確信していた。
消えることは、生きることだった。

新しい仕事にも慣れーーーあれほど欲していた新しい仕事に慣れたあとは、「このままでいいだろうか」という不安だった。
そう、わたしはずっと不安なのだ。
だから、遠くへ行きたいと思った。
東京の空にゆらゆらと昇ってゆくアメリカンスピリットの煙を見ながら、消えよう、と決めた。
そして、ロマンスカーに乗って、江ノ島に行くことを決めた。

18時30分の定時に会社を出て、そのまま小田急新宿駅に向かった。
使い慣れた駅なのに、「ロマンスカー乗り場」にたどり着くと、それはなんだか帰省するときみたいな、妙に浮足立つ空気だった。
売店のお弁当から、そういう匂いがしていたんだと思う。

オレンジ色の光に照らされて、しずしずとロマンスカーは走り出した。見慣れた道を、見慣れた速度で
誰かが開ける缶ビールの音が、日常と非日常の狭間だった。
それは、旅行の匂いに似ていたけれど、誰かが仕事を終えて、ゆっくりと家に帰る音だった。

町田を過ぎて、あたりはどんどんと暗くなった。
暗いだけの道を走って、終点は藤沢だった。
このまま小田急線で片瀬江ノ島まで行けるけれど、そういえば江ノ電って藤沢から乗れるよなあ、と思って電車を降りた。
小田急の藤沢駅から、江ノ電の藤沢駅までちょっと迷ったけれど、ひとりだったからそれでも気にならなかった。

江ノ電は、もう非日常の空気だった。
それは、見知らぬ電車に乗ったという事実に付随する、自分ではない誰かの日常の匂いが、わたしにとっての非日常となって、ぶわりと襲いかかってきた。
でも、大丈夫。
目的は江ノ島。
もう乗り換えの必要もなく、わたしはただ揺られるだけ。

江ノ島駅で降りて、ふらふらと海を目指した。
江ノ島って名前の駅だから、江ノ島の真ん前に着きそうなものだけれど、そんなことはない。
時刻は20時、コンビニだけが煌々と明るい。
海の音に惹かれて、暗い道を進んでゆく。

そして、海だった。

夜の海は、暗かった。
黒かった、というほうが正しいかもしれない。

波の音だけがして、なんだか魔物みたいだった。
それは、深さがわからないからだと思う。

静岡の、家の前の川は浅瀬で底が見えたし、歩き慣れてもいたけれど
わたしは海で泳いだのは数回だし、得体が知れなかった。
飲み込まれる、と思う。
だって、飲み込まれないって保証がない。
ざばんっ、という波の音は、妙に大きく、何度も響くだけで

弁天橋を渡って、江ノ島に登ってみた。
猫がいた。

それから、弁天橋を戻って(往復するとなかなか疲れる)、浜辺に座った。
煙草を吸った。
それ以外にやることがなかった。
砂浜を歩くにも、本を読むにも暗すぎた。

煙草を吸って、海を見た。

途中、知らないお兄さんに話しかけられて、少し話をした。
ごはんに誘われるわけでも、ホテルに誘われるわけでもなく、ただ話をした。

そしてまた、海を見た。
波の音を聞いた。
正直、想像していた海とは違った。
もっとこう、派手で、きらきらして、それでも安心して、そういう妙な期待をしていたんだと思う。

夜の海は、暗くて黒い。
なにも見えなくて、飛沫だけが時折白い。
波の音も、不思議と響く。ずうんと響く。薄いリバーブとディレイが、まとわりつくような音だった。

それでも、ねえ
ひとりで江ノ島に来られたよ。
仕事終わりに、ふらっとさ。
君が好きだって言ってた江ノ島だ。
そのことを、手紙書こうと思った。

2年経って、海について思い出せることはここまでだ。

2023年の1月、友達の付き添いで江ノ島に行った。
そのときには、2023年4月のことを思い出して、またきたよって笑った。
夕方で、友達と別れてひとりだったから、本を読んだ。

あの夕方の江ノ島は、きれいだったと思う。
また見たい、と思う。

じゃあ、休みの日に江ノ島に来ようか、と思うと少し遠い。
だったら、すみだ水族館の小笠原大水槽の前でふけっていたい気もする。
そういえば、江ノ島水族館に1度だけ行ったことがあるんだ。あんまりよく覚えていないけれど。
君が好きだと行っていた場所だし、もう一度くらい行ってみてもいいかなァ。
でもたぶん、誰かに誘われなければ行かない気がする。

でも、江ノ島のシーキャンドルはいつか見たいと思っている。
イルミネーションは好きだ。
1月に江ノ島に行ったときは、開催時期だったのにスケジュールに組み込んでいなくて(というか、江ノ島と鎌倉と藤沢と、あのへんの位置関係がよくわかっていなかった)、見ることができなかった。
次の冬には行きたいなあ、一緒にどう?
11月のスガシカオのライブのチケットが当たっているから、冬あたりまでは生きていると思うんだよ。

そう、いまは夏だから。
もう少し涼しい季節だったら、江ノ島もいいモンだって思うかもしれない。
そうだ、1月に行った江ノ島はとてもよかった。展望台にも行ってみたかった。

おとなになったわたしは、どこへでも行ける。
海にも、ときどき行く。

海は、いまでも特別だ。
うんと、非日常の匂いがする。
非日常すぎて、良い関係が築けていない気がする。
今度、良い季節に誰か誘ってくれないかなあ。夏じゃないときに。
そうしたら、ずっと見ていられるのに。と思うのだけれど。

だったら川がいい。
わたしはきっと、多摩川のほとりで、本を読んだりするのだと思う。
そっちのほうが近いし。
遠出するなら、すみだ水族館に行っちゃう。ポケモンセンターもあるし。
仕事帰りなら、アクアパーク品川も良い。
あそこは遅くまでやっているし、クラゲのコーナーと、ワンダーチューブに延々と座っていられる。
あと、あそこの幻想的なイルカショーもとても良いし、夜の「イルカのいないイルカショー」もよかった。音と水だけのやつ。300回泣いた。

だから江ノ島は
わたしのとっての海は
幾つかの特別な思い出と一緒にしまわれて、時折思い出すように広げて見るくらいで、ちょうどいいのかもしれない。

わたしは多摩川での思い出をこんなふうに慈しまないけれど
あの日の江ノ島のことは
このあと2年経っても10年経っても
取り出して、思い出すのだと思う。



撮影:2023年1月
片瀬江ノ島の海岸にて。左側に見えるのが江ノ島
2021年4月の乗車券は、いまでもずっと財布の中


2021年4月に書いた、同じ日の話


2023年1月に訪れた江ノ島の写真など


結局何度でも行きたい水族館のはなし




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松永ねる
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