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KOJIKI<倭建命③>

トップの写真は「熊襲の穴」という場所。鹿児島県の観光サイトからのお写真です。鹿児島県霧島市の妙見温泉というところにあるんですね。

16歳の倭建命は16歳。伊勢神宮で天照大神に奉仕する叔母、倭姫命(ヤマトヒメ)の元に足を運び、倭姫命のお衣装を纏い、そして剣を懐中に抱いて、熊曾建(くまそたける)征伐の軍旅に出たのです。

折しも、熊曾建家を新築し、周辺に軍勢を三重に配した岩窟を居にして守りを固めています。新築祝いの宴がもようされるようで、宴の準備に忙しい周辺。倭建命はその時を待ちました。

祝祭が始まるその日に、髪を少女のように結い直し、倭姫命のお衣装をまとい女装し、すっかり少女に姿を変えてこの宴の中に入ることができたのです。

「なんと、かわいい!、さぁ、さぁ、こちらに」

「とても、神々しい衣装でなんと美しい・・・。もっと、近くに」と、熊曾建の兄弟は見目麗しく少女に姿を変えた倭建命を一目で気に入り、自分たちのそばに呼び寄せ2人の間に座らせて酒盛りを続けました。

宴もたけなわ、ころやよし。

倭建命は懐中から叔母からもらった剣を抜き出し、まず兄の方から襟を取り胸を刺し通しました。兄を討たれて驚いた弟が逃げ出したが、階段の下で捕まえ、背の皮を掴んでブスリとつきました。

「ま、待ってくれ、そのまま、そのまま、刀を動かさないでくれ、」

「一体、誰なんだ?」

と、深手を負った熊曾建の弟は尋ねました。(昔の時代劇とかのシーンをイメージしていただければ・・・。)

「私は、大帯日子於斯呂和気命(おおたらしひこおしろわけのみこと・12 代景行天皇)の御子で倭男具那(倭建命)と言います。お前たち兄弟が服従しないので、はるばる成敗にやってきたのです。」

「なるほど、なるほど、よくわかりました。天皇の御子だったんですね・・・。西国では私たち兄弟よりも強いものはいないが、天皇のいらっしゃる倭の国であれば、私たちより強いものがいても不思議ではありません。

そうでしたか・・・。それではあなたに御名を献上いたします。これからは倭の勇者 倭建命と称賛いたしましょう。」と言い終えると、熊曾建の弟は命を裂かれてました。

敵から名をもらった御子は彼一人。日本一の勇者であるとの称号の名を得たのです。このように使命を果たした倭建命は、彼は海の神、川の神など逆らうものを皆平定して行きました。

天皇が御子を使わせてまでへいてさせたかった熊襲(九州南部)この熊襲の国神は当時、高い技術を持っていたようです。
その勢いを恐れた大和朝廷は、幾度となく兵を送り、平定がくり返されています。六世紀頃にはすでに撲滅の危機にあったと伝えられていますが、中国と交易で得たと思われる銅鏡や琉金神獣鏡が遺跡から見つかっています。当時の熊襲を治めた国神は魏志倭人伝で邪馬台国と戦った狗奴国ではないかとの研究もあるようです。

いずれにせよ、大和朝廷が恐れるほどの高い文化と国を治める力を持っていた熊襲。後世の江戸時代において薩摩藩が、海外の貿易、高い文化と国力を持ち徳川幕府を脅かす存在であったことと似ています。

次回は倭建命が出雲国に立ち寄った時のお話をいたしましょう。


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