「主体性」を奪う「優しさ」とは。
今更ですが、組織には向かないやつだと自分でもあきれているJUNです。
組織には向きませんが、「子どもたちと楽しく活動する。」ということには、人一倍のこだわりがあります。
そのこだわりを実現するためには、もちろんチャレンジは欠かせません。既に先輩方が実践されてきた中にも「楽しさ」は散りばめられていますが、やはりまだ誰もやったことないことにチャレンジしてみたいと思ってしまうのです。
刻々と変わる時代の中で、学校が担う役割や可能性は広がっています。ますます、おもしろいことができる環境が整いつつあるのです! これは、チャレンジするしかないでしょう。そして、チャレンジした先にある成果を何としても手に入れたいのです! しかし、このように考えている変わり者ばかりではありません。
本日は、そんな話題。
教師は、子どもたちに「主体性」を求めます。主体性には、「チャレンジ」という意味合いも込められていると僕は勝手に解釈しています。しかし、「主体性」を求めながらも「チャレンジはさせない。」という訳分からん状態が生じている状況が残念ながらあり得るのです。
そんな事実に気づいている人は納得してもらえるような内容になっていますので、教育界の革命化の方々は是非とも読んでくださいね!
▶「主体性」を奪う教師の判断とは。
さて、いきなり、結論からいきましょう。
教師は、往々にして「主体性」を求めます。そんな教師の気持ちを知ってか知らずか、子どもたち全員が主体性を発揮して活動しているという状況をつくり出すのは至難の業です。もちろん、性格や教科特性によって、「主体的」な姿が見られるときもあれば、そうではないときもあるというのが正解でしょう。
だからこそ、子どもが主体性を発揮したタイミングをつかんだら「ここぞ!」とばかりに全力で応援しに行くものです!!
例えば、国語の時間を例にあげましょう。
漢字練習の時間です。当然のことながら、子どもによって取り掛かるモチベーションは違ってきます。僕の実践を振り返ってみると、漢字練習とは割と友好的に接してくれる子どもさんが多いのですが、中には、
「新しい漢字をどんどん練習したい!」
という気持ちをもつ子どもは確実に出てくるでしょう。しかし、教師によっては、
「みんなで進めるから、先に進んではダメ。」
という指示を出してしまう教師もいるのです。
また、国語の授業で「おすすめの本の紹介文」を書いたとしましょう。大好きな本を紹介しようと主体的に取り組み、「もっと書きたい!」という気持ちから、
「家で書き進めたい!」
と言い出すことがあるでしょう。しかし、教師によっては、
「順番に書き進めるからダメ。」
と言ってしまう教師もいるのです。
もちろん、教師側にも子どもの申し出を断る理由はあるのだと思います。「書き順をしっかりと教えてから練習させたい。」とか、「進み具合がずれてしまうと授業がしずらい。」という理由かもしれません。
しかし、ここで一番気にかけないといかないのは、
「子どもが主体性を発揮した芽を摘んでいる。」
という事実です。
教師側から指示を出さずとも、「自分から取り組みたい。」という気持ちは、まさに主体性の体現でしょう。
そのような主体性チャンスの芽を、教師の一言によってへし折っているかもしれないという意識をもつ必要があるのです。
▶主体性を奪う「優しさ」とは。
ここまで読んできて「なぜ、教師が主体性を奪う判断をしてしまうのか。」分かった方はいらっしゃるでしょうか。
そうです、その判断基準となっているのは、
「みんな一緒。」
という、
「優しそうで優しくない考え方。」
なのです!
しつこくてすみません。結構、執着心強めの性格なもので。「学校スタンダード」について記事にしたときにも話題としましたが、学校現場には、「みんなで足並みをそろえていきましょう。」というぬるいルールが染みついています。
「じゃあ、みんなって誰だ?」という話になりますよね。この話を始めると、僕がどれだけひどい人間なのかというゴールに進んでいってしまいますが、仕方ありません。ここで言う「みんな」とは、
「できない人。」
です。もっとひどいことを言いましょう。
「挑戦しない人。」
です。もっともっとひどいことは言わないでおきます。
ただ、日々の自分を更新して新しいことにチャンレンジしようというモチベーションをもっている人に合わせてくれることは全くないのが現状です。彼らの主張は、
「できる人とできない人の差が出てしまうから。」
という理屈なのです。もっと言うと、
「誰が担任になってもそれなりに学級経営ができるようにしないといけない。」
という理論でまわっています。この理論をつきつめていくと、
「できる人は、できることを十分に発揮してしまうと、誰しもがそれをできる訳ではなくて次の担任が困ってしまうかもしれないから、力を抜いておいてくれ。」
ということになると思いませんか。僕は、「普通」に毎日を過ごしていくことが嫌なのです。できることは最大限に発揮して、もっとできるようになりたいのです。そこに子どもたちの「主体性」がのっかって、僕の手が届かないところまで飛んで行ってほしいのです!
だから、煙たがられてしまうのでしょう。今、改めて分かりました。
▶主体性を奪い続けた「結果」。
ここで答え合わせをしましょう。
「やりたい!」と思ったことが、「みんながやってないからダメ。」と折られ続けた結果どうなると思いますか。
正解は、
「答えを探す子どもが生まれる。」
のです! こんな質問されませんか?
「○○してもいいですか?」
という質問。完全に許可型人間として育てられてしまっています。この質問に隠れているのは、
「やりたいことはあるけれど、先生は許可してくれるかな。」
という、
「先生の正解探し。」をしてしまっています。まさに、主体性ストップをかけられていた結果と言えるでしょう。本来であれば、
「〇〇したいのですが、どうやって進めたらいいと思いますか。」
と、やりたいことの方法を問うような子どもたちになってほしいものです。
▶まとめ。
本記事では、「『みんなと同じ』が主体性を奪う。」という内容をまとめました。
学校こそ「多様性」を学ぶことができる最高の場所だと僕は考えています。そんな恵まれた環境で、同じレールの上を走らせようとする教育は、完全に方向性を見失っているのではないかと思う今日この頃。
本来であれば、共通の目的に対して「自分やり方で実現しよう。」とする過程にこそ学びがあるはずです。
もっと、様々な個性を発揮しやすい環境をつくろうと、チャレンジ精神の旺盛な主体性のある教師が現場に増えることを切に願っています!!!
主体性を発揮して録りました!