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「新」学級崩壊。

学級崩壊が進化している。僕は、今までの教員人生の半分以上を崩壊した学級の立て直しに挑戦してきた。世の中の変化と供に「学級崩壊」の在り方も変わってきている。

旧来の「学級崩壊」

僕が、教育書を読み漁っていた頃の学級崩壊は、

学級をやんちゃ君にかき回されて、手に負えない。

というものが主流であった。やんちゃ君を上手に集団へ馴染ませつつ、学級をまとめていく先人の様々な実践や技術が掲載されていた。

しかし、最近の学校では、新たな学級崩壊の流れが生まれたことにより、ベテランと呼ばれる教員や素晴らしい実践を残し、活躍してきた教師が療休に追い込まれている状況がある。

では、その新たな流れとは何なのか。それは、「静かな学級崩壊」の誕生である。過去の学園ドラマのような、いわゆる「荒れ」とは、真逆の様相を呈している。静かな崩壊の困難なところは、次の3点である。

・気付かれにくい。
・教師のモチベーションを奪う。
・子どもたちが、ある程度満足している。

気付かれにくいからこそ「静かな崩壊」

授業中にも関わらず、自由に立ち歩く。中には、机やロッカーの上に立っている子どもがいる。教師がいくら大声を出しても、誰も聞いていない。当然授業は成り立たず、教師は消耗していく。このような崩壊は、これまでの典型だった。事前に崩壊の傾向が見られると、学校全体で取り組むべきことといして対応していく。しかし、「静かな崩壊」は、見た目は全く問題ない。むしろ、子どもたちが学習に集中しているように見えるのだ。そのため、過酷さは、担任しか分からないのである。

教師のモチベーションを奪う「静かな崩壊」

「子どもたちが授業を静かに受けている状態の何が問題なのか。」「贅沢を言うんじゃない!」と思われる方もいるだろう。しかし、この辛さは、「楽しく授業をしたい!」「子どもたちを力を伸ばしてあげたい!」と思っているやる気のある教員のメンタルをじわじわと蝕んでいく。

「教師がどんなに教材研究をして授業展開を工夫しても、何もリアクションがない。」

ことが、教師にとって一番辛いことである。様々な考え方の教師がいるので、一概には言えないが、この仕事の「やりがい」は「子どもたちが生き生きと授業を楽しんでくれる姿」を見ることではないだろうか。どの教師も、子どもたちの授業を大切に考えている。大切だからこそ、45分の授業に膨大な教材研究の時間をかけて準備をする。「自分が計画した授業で、子どもたちがどんな姿を見せてくれるのか。」わくわくしながら仕事をするのである。自分にできる準備を全て終え、満を持して子どもたちに対して問いかけた時、

「リアクションなし。」

であったらどのような気持ちになるだろう。教室全体を見回すと、みんな下を向いてノートに何かを書いている。黒板には、何も書いていないのにだ。予想をしていなかった子どもたちのリアクションに、少し焦りながら何とかペースを取り戻そうと四苦八苦する。教師の世界では御法度となっている「問いの言い換え。」をしてみるが、またもノーリアクション。たとえ、子どもたちが、何の言葉を返してくれなくても授業はできる。プリントを用意して練習問題を解いたり、教科書の取り組むページを指示して、教師が答え合わせをしていけば良い。学習に対して何のひっかかりもないため、学習進度は、超ハイペースで進めることができる。授業を工夫する必要はない。ただ、プリントを配付すれば良いのだから。しかし、どれだけの教師がこの状態を「楽しい。」と感じるかは疑問だ。

子どもが満足している「静かな崩壊」

学級崩壊を立て直す方法として、それまでの僕が核にしてきたことは、「今年こそは、良いクラスにしたい!」「今年こそは、自分の力を伸ばすんだ!」という、子どもたちの素直な気持ちである。崩壊を経験した学級の子どもは、自分の学級が「違う」ことを認識している。中には、「あのときの俺は、結構ひどかったよな。」と堂々と回想する子どももいる。このように、客観的に捉えられる力のある子どもたちだからこそ、崩壊の次の年は、良い方向へ向かってスタートを切ることができるのである。しかし、静かな崩壊の場合は違う。この崩壊を立て直す難しさは、「子どもの満足感」にある。僕の学校では、毎年3度に渡り、子どもたちの実態調査アンケートを取る。様々な項目があるが、その1つに「あなたは、学校が楽しいと思っていますか。」や「あなたは、進んで学習に取り組んでいますか。」という設問がある。静かな崩壊していた僕の学級にも実施した。その結果は、教師の認識とかなりずれていたのである。多くの子どもが、

「今の状況に満足している。」
「自分は、頑張っている。」

という回答をしたのだ。それまでの僕は、「子どもたちも今の状況を打破したいと思っているに違いない。」と考えていたが、肝心の子どもたちは

「何の問題も起こらない、今の状況がずっと続けばいい。」

と思っていたのだった。むしろ、僕が様々な手立てを打つものだから、

「余計なことをしないでほしい。今のままでいいんだから、新しいことに挑戦したくない。」

とすら思われていたのだ。完全に僕が一人ぼっちだったのだ。

「静かな学級崩壊」の対処方法。

悩んだ僕が、頼ったのは教育書であった。学級崩壊から立ち直った実践をひたすら読み返したところ、何度読んでも気にも留めていなかったあるキーワードに辿り着いた。それは、

「ひたすら耐え忍ぶ。」

というものだ。この手段は、従来の「荒れ」に対する対処方として書かれていた。「自分の力が及ばないと分かったときは、必要以上にもがくのではなく、自分自身が生き残る術を優先しなければならない。」その最たる方法が、「耐え忍ぶ」と掲載されていたのだ。それまでの僕は、「何とかして今の状況を改善しよう。」としていた。それが間違いだったのだ。子どもたちは、今の状況に満足している。満足していないのは、僕自身だった。もちろん、「耐え忍ぶ」を実践することは受け入れがたかった。しかし、次のように自分自身へ問いかけることで乗り切った。

「目の前の子どもたちは、今の状況に満足している。その状況を改善しようとしている僕の行為は、『僕の理想』へ近づけようとしているだけではないだろうか。」

このように考えることで、「目の前の子どもたちが求めていることは何なのか。」を捉えなおした。そして、受け入れ、自分の理想を捨てたのだ。

蝕まれる教師の思考法

教師は誰しもが、「子どもの力を伸ばしたい。」と考えている。そして、「そのためには、自分が何か手立てを打たなければならない。」という使命感を抱いている。それが、日々の授業のモチベーションになり、「子どもの楽しそうな姿」が、次の授業へ向かうエネルギーとなっている。静かな崩壊は、この思考サイクルを蝕んでいく。

「子どものため」と思って準備をした授業と、個人プリント学習型の授業では、子どもの反応に差がでなることはなかった。むしろ、子どもが問題意識をもって追究していくような授業展開より、目の前に課題が提示されて黙々と解いていくプリント学習の方が喜ばれた。どちらが、目の前の子どものニーズに合っているのかは明らかだ。少しずつ個人学習の時間が増えていく。ほとんど話合いをすることなく、淡々と授業が流れていく。授業準備は、プリントの印刷に割かれていく。「本当にこれでいいのか。」と自問自答が始まる。授業をしない日々が、「教師として許されるのか。」とメンタルを蝕んでいく。このサイクルに入ってしまっては終了である。

僕は、教師として中堅に入りかけたことで、この学級を任せてもらえたことを今では良かったと思っている。自分の実践を見直し、自分本位な考えを見つけることができた。今後、「静かな学級崩壊」は確実に増えてくる。自分の「授業観」が固まった教師こそ危険だ。教師こそ、時代に合わせて柔軟に変化していかなければならないのである。


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