「何をしたか」ではなく「だれがしたか」が大切な理由
むかしむか~し、たいそう退屈な研究会がありました。
「研究会」といっても様々なパターンがあるのですが、その日の研究会は、ある先生が授業をして、「その授業の内容を話題として話し合い、みんなで授業力をあげようね」という目的のものでした。
参加した先生たちが日々の業務で疲れていたのか、見せていただいた授業が刺激的なものでなかったのか、先生たちの話し合いは、なかなか盛り上がりにかけ、気を抜いたら夢の世界へいざなわれてしまいそう。
終始穏やかな空気感に包まれていました。
そんな空気感を一気に変えたのは、「では、講師の先生から指導・講評をいただきたいと思います」というアナウンス。
それまで出来る限り油断していた先生たちは、一気に集中モードへ突入。
ノート片手に前のめりになり始めたのです。
多くの先生が、そのような行動に出たのは間違いなく「講師の先生の話を聴きたい!」という意欲なのですが、こうも態度が変わるものかと驚いたものです。
当然のことながら、そんな大物講師もスタートは一般教員であり、自分の授業をたくさんの人に見てもらい、「あーでもないこーでもない」と無責任な批判にもさらされたでしょう。
そんな大物講師様の昔の話を本日の話題とさせていただきます。
▼「何をしたか」ではなく「だれがしたか」が大切
ちなみに、ぼくはこの研究会の運営側に所属していたため、研究会が終わった後にちょっとした慰労会を設定したのです。
その慰労会で、その大物講師様が過去の栄光を話始めました。
「これはとんでもないぞ...」と思ったものです。
授業の計画案(指導案)というのは、授業をする先生がどのような作戦で進めていくのかを知る唯一の手立て。
作戦を誰にも伝えないまま戦場へ出ていくなんて考えられない訳です。
ただ、その大物講師様は、それをやってのけた。
いや、正しくは「やってのけられるほど大物だった」ということでしょう。
ぼくのようなヘタレ底辺教師が同じことをしたとしたら、「何やってんの…」と一蹴されるでしょう。
そう、この世は不条理であり不平等。
同じ行動でも、
「だれがやるかによって相手の受け取り方が大きく変わる」
のです。
周囲から認められ、信頼されているからこそ、突拍子もないことをしても、
という風に、受け取り手が価値を修正して、相手が都合よく解釈してしまうなんてことが、この世にはたくさんあるのです。
この「決めつけ」が怖いのは、その大物や権力者が、「いつも正しい選択をするとは限らない」ということ。
実験では、
「権力をもてばもつほど、一般的な価値観から離れていく」
ということが分かっていますし、
「革新的なアイデアは、その道のど素人の方が思いつきやすい」
なんてことも確認されています。
だとしたら、大物講師が話始めた瞬間に意識すべきは、
「この先生は、自分の価値観を押し付けようとしていないか。」
「しっかりと、客観的な視点で情報を伝えているか。」
ということ。
たま~に、自分の過去の実践を意気揚々を紹介してくださる方もいらっしゃいますが、再現性はほぼほぼない。
しかし、聴いた方としては、「なんか、ぼくもできそう!」なんて勇気をもらっちゃうもんだから難しい。
「よりよい情報をインプットするとやった気になってしまう」というのが、ぼくたち人間の悪い癖ですからね。
もちろん、先人たちの創意工夫を聴くことで、自分の仕事をアップデートすることもできるでしょう。
その際は、あくまでも「自分の仕事でどのように応用できるのか」と「行動レベル」に落とすことであり、「大物になった気になる」ことではないのです。
▼まとめ
本記事では、「よりよい情報の受け取り方は、『行動』につなげることだよ!」という内容をまとめました。
やった気になって現状維持するのではなく、「行動」につなげることを意識していきましょう!!
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