プレリュード(前兆) /街角の小さな違和感(1)
マンションの近くの空き地が平置きの駐車場になっている。
ひび割れたアスファルトに白い線が引いてあるだけの駐車場だ。向かって左から4番目のスペースに赤いプレリュードが停まっている。ずいぶん昔に人気のあったHONDA車だ。
プレリュードは廃車同然の状態だった。ナンバーはついているが、タイヤは全てパンクし、塗装は雨ざらしのせいで汚らしく剥げ落ちていた。車内には日焼けした細々としたものがそのまま放置してある。ティッシュボックスとかシートカバーとか芳香剤とか、カセットテープとか、何かの袋とかだ。何年も動かした形跡がないのは一目瞭然だった。山の中に放置してある廃車と同じだ。
僕は、その隣のスペースを借りていた。
マンションの駐車場に空きがなかったこともあり、一番近いこの駐車場を借りることにしたのだ。空いていたのは、この3番のスペースだけだった。
駐車場の管理は隣り駅の地回りの不動産屋で、井の頭線のガード下近くに事務所はあった。今やNHKの朝のドラマでしか見かけない昭和三十年代にタイムスリップしたかのような事務所だ。用務員室のような事務机が並ぶ細長い作り。アルミの大きなやかんがストーブの上でやる気のなさそうな湯気を立て、仕出しの弁当を事務員が不味そうに食べている。
契約に向かうと、お湯に黄色い色がついただけのお茶を出された。飲むのをためらうような湯呑み茶碗だった。
あらかたの説明を聞いた後、僕は切り出した。
「隣の赤い車なんですが」
「ああ、あれね」
長年、不動産業界にいるだろう下卑た顔の老人が事も無げに引き継いだ。
「駐車料金は毎月払うんだよ。おかしいと思うんだけどね、捨てられないんだとさ。もう動かないのにね」
「そうですか。本当におかしいですね」
「そう。でもお金はちゃんと払うからね。出て行けとも言えなくてさ。きちんと更新するんだよ、二年置きにずっと。近所の女の人だよ、借りてるのは」
女の人? それは意外な借主だった。
「トランクの中に……」僕は冗談めかして言った。「何か入っているとか?」
「知らないですな、何が入っていようと。こっちは毎月駐車料金をきちんと振り込んでもらえたらそれで問題ないんだよ」
明らかに不機嫌になって老人は言った。あまり、あの車のことには触れて欲しくない感じだった。
その後、物々しい書類を何枚も読まされサインをした。たかが駐車場を借りるのに、どうしてこうもわかりづらい文章を作れるのかわからなかった。判子を突くと、奥にいた若い従業員が書類を僕から引き離した。まるで、悪魔の契約書にサインをした気がしてきた。それにしても、この前世紀の遺物のような不動産屋に若い従業員がいるのが信じられなかった。
僕はその頃、毎日のように車に乗っていたので、毎日朝晩二回はその赤いプレリュードを見ることになった。
僕の買ったばかりの空色のフィアット500と廃車同然のプレリュードは、隣同士でどうにも収まりが悪かった。コミュニケーションを全く取れない年の離れた親子のようだった。
それに、なんだか不気味だった。その車のことを考えると、悪いことしか想像できなかった。全く動かず、もはや車として価値がないものを安くない税金を払って持ち続けるのは何か理由があるのだろう。これを動かすには車検を通し、あらゆるメインテナンスをしなければ、エンジンすらかからないはずだ。レッカー車を手配して工場に持ち込まない限り鉄屑同然なのだ。それを全て手配するには、かなりの金額がかかる。そんなものを高い駐車場代を毎月払って(28.000円/月)維持する人の気持ちがわからなかった。
僕は、毎朝そのプレリュードを見てから、自分の車に乗り込み、夜遅くに帰ってきて、また見た。
プレリュードはもちろん、1センチも動いた気配はない。タイヤは完全にパンクし、アスファルトと溶けて一体化しているかのようだ。タイヤには雑草すらたっぷり生えていた。夜になると、街灯に照らされたプレリュードは、小さな廃墟を思わせた。とにかく住宅街の駐車場にしては、なかなかシュールな光景だった。
僕は日を追うごとに、そのプレリュードに心を奪われていった。見たいわけじゃない、見ざるを得ないのだ。僕は、帰ってくるとプレリュードを眺めながら煙草を一本吸うのが日課になった。
僕がある晩遅くに戻ってきて、赤いプレリュードを眺めていると、巡回中の警察官がよってきた。
「どうかしましたか?」
警察官にとっては僕が不審者に見えたのだろう。
「あ、いえ……この車、不思議だなと思って」と、僕は赤いプレリュードを指差した。
警官は懐中電灯で、プレリュードを照らした。ブルーのスポット光で照らされると、余計に犯罪性が帯びてくるから不思議なものだ。
「隣を借りているんです」
僕は自分のフィアットを示した。
「毎日見ていると、なんていうか妙な気持ちになるんです」
「何がですか」
「いや、例えばトランクの中に何か入っているんじゃないかって、時々考えてしまうとかですよ」
警察官は僕の顔を見て、めんどくさそうに言った。
「何もないとは思いますが」
「盗難車でもない?」
警察官は、僕を見て、小さくため息をつき、無線でナンバーをどこかに問い合わせた。
「本当は個人の所有物ですから勝手に調べるわけにもいかないんですよ」
「何かわかったら教えてもらえませんか?」
「それはできません」
「善良な市民のお願いでも、ですか?」
警察官は表情を変えずに、僕の住所と連絡先を聞いた。仕方なく僕は淡々と答えた。警察に住所氏名を聞かれて答えるのは、いつだって気持ちのいいことではない。
「なんでもいいから知りたいんですよ。不動産屋に聞いても何も教えてくれないんです。でも、明らかにこの車は不自然だと思いませんか。こんな住宅街に、駐車場のお金さえ毎月払えば何を置いてもいいって、おかしくないですか?」
警察官が、帽子を被り直した。そして、僕の顔を見て言った。
「いろんな人がいるんですよ。あなたにはわからないでしょうけど」
「はい?」
「都会にはいろんな人がいるということです。私も警察官になってからわかりました。私たちの想像上の住人などどこにもいないんです。しかしね、人の心の中には踏み込んではいけないんですよ」
僕は警察官の言ったことをしばらく考えた。
「わかります。僕もそのことをずっと考えていました。毎日、この車を見ていると、とてもつらい気持ちになります。持ち主のことを考えてしまいます。そして、トランクの中に何かよくないものが入っていなければいいなと想像してしまうんですよ」
「きっと犯罪性はありません」
「そうですか」
警官に無線が入ったのがわかった。警官は、僕から少し離れて背を向けた。
「盗難車ではありませんでした」
「そうですか」
それはわかっていたことだった。盗難車を駐車料金を払って、堂々と置いておく人間はいない。それも何年も。
誰かが、なんらかの理由で、ちゃんと所有している車なのだ。その理由が知りたいだけだ。
「申し訳ありませんが、ここまでです」
「ありがとうございました」
「時々、気にして見ておきます。何かわかったら……お伝えしますよ」
「お願いします」
警察官は、軽く敬礼し自転車で去っていった。
僕は、駐車場にプレリュードとポツンと取り残された。遠くでサイレンが鳴るのが聞こえてきて、やがて遠ざかった。
外灯にぼんやりと照らし出されたプレリュードは、いつもよりみすぼらしく見えた。犯罪性はなく、朽ち果てた赤いプレリュード。
僕はプレリュードの正面に立ち、運転席をじっと見つめた。いつになく、その姿が孤独で寂しげに見えた。
エンジンを掛けるんだ。タイヤを新品に履き替えて、エンジンオイルを入れ替えて、ガソリンをたっぷり。バッテリーはチャージ済みだ。すぐそこの路地を左に曲がり、まっすぐ行けば環状七号線に出る。首都高速に渋谷から入って、都会の中を思い切り走ればいい。かつて、お前がそうしていたように。夜の街を駆け抜ければいい。
翌朝、駐車場に行くと、いつものようにプレリュードは静かに僕を待っていた。僕はフィアットに乗り込み、エンジンを掛け仕事に向かった。
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