#4 戦争と3度の命拾い、茶をつくる喜び|東京繁田園物語デジタルアーカイブ
本記事は、東京繁田園茶舗の創業者・繁田弘蔵が執筆した『東京繁田園物語』(1995年)の内容を再編集したものです。
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戦争に行く
盛岡で兄の仕事を手伝う日々を送っていた私ですが、時代は戦争のまっただ中にありました。私も他の青年たちのように、兵隊にとられる年齢に達していました。昭和18年1月、20歳で私は通信隊に入隊しました。そしてビルマ戦線に送られることになりました。入隊通知には「ビルマ二六〇〇部隊」と記されていました。
私は中学校を出ていましたから幹部候補生になれる資格はあったのですが、あえて一兵卒を選びました。将校たちのえらぶった態度を郷里で目の当たりにする内に軍人に嫌気がさしたのです。入間にある繁田の本家では、国からの命令によって近くの航空士官学校の教官たちを強制的に下宿させられていました。彼らは人の屋敷内を我が物顔でのし歩き、こちらを見下した態度です。朝になると若い将校たちはふんぞりかえって馬に乗り、その後ろを当番の兵隊たちが駆け足でついていきます。そのような光景を目にするたびに、私は軍人に反感こそ持て好意など少しもわきませんでした。こちらは商人です、軍人とは性が合わなかったのです。しかし戦争そのものはお国のためですから行かなければなりません。ただし将校になって行く気はありませんでした。
三度の命拾い
私は入間の生家から出征し、ビルマ行きの船に乗り込む日を待ちました。ところが戦局は悪化するばかりで、ビルマ行きの船もまたことごとくやられ、とうとう乗れる軍艦がなくなったのです。そこで3か月後の4月には除隊され、入間の生家に帰されました。
次に招集を受けたのがその3か月後の6月です。今度はフィリピン要員でした。私と同じように招集された通信部隊員は600人。それらが200人ずつ3班に分かれて船に乗り、フィリピンへと送られる予定でした。私はその3番目の、最後の船で行くことになってい ました。
ところが一先発の船も二先発の船も、ともにフィリピンに行き着かない内に敵に撃沈され、乗っていた400人の仲間はみな帰らぬ人となったのです。運命とは、どこでどうなるかわからないものです。もし私が一先発、二先発の船に割振りされていたら、確実に死んでいたことでしょう。際どいところで助かったのです。とにかくフィリピンはもうだめだというので私たちの出航はとりやめになりました。
次に送られることが決まったのは樺太のアッツ島です。ここは北方の守りの重要な基地です。ところが私がそれまで受けていた軍事訓練は、ビルマやフィリピンといった暑い国での出来事に対処する事柄ばかりです。なのに今度は一転して極寒の地です。そのため一から訓練をやり直さなければなりません。そこで私は盛岡でそのための訓練を受け、3か月後の雪解けの頃にアッツ島に向け出発する予定で待機していました。
ところがここでまた私は命拾いをしたのです。ちょうどその雪解けの頃にアッツ島が陥落したからです。山崎部隊長を始めとして全員が玉砕するという悲劇の最期でした。もし私がそれより少しでも前にアッツ島に赴いていたら、私もまた玉砕者の一人になっていたに違いありません。
一度といわず二度、三度と私はぎりぎりのところで命を救われました。なんと運のいい男か。その思いを強くせざるをえませんでした。
その後いよいよ日本の敗色が濃くなり、戦力は皇居の守りへと注がれるようになりました。私はもはや外地にやられることもなく最終的には千葉に駐屯し、そこの兵舎が敵機に爆撃されてからは川越に移り、そのまま終戦を迎えました。昭和20年8月、22歳の時でした。
農作業に従事
私はほとほとお茶から離れられない性分のようです。昭和18年と20年には軍隊にいたのですが、それでもお茶づくりの時期になると私はなぜか工場に戻っていてお茶をつくっていました。
というのも軍隊に入ったのは昭和18年の1月で、4月には除隊になり、次に招集されたのが6月です。ですから5月のお茶の時期には家にいることができて、十分お茶をつくることができたのです。またその翌年もその時期になると家に戻ってきてお茶をつくりました。ただしこれはその時に始まったわけではなく、戦争に行く前、盛岡の兄の店にいる時も5月になると休みをもらって石神井の工場に戻り、お茶をつくっていました。普段の月は休みをとらず、その分この時のためにとっておいたのです。
お茶づくりは早朝から行われます。朝の3時半か4時頃、まだ外が真っ暗な時刻に起き、夜明け前から仕事を開始します。寝る時間は日に4時間足らず。食事も仕事の合間に交替でとるのですから最低のものしか口にできません。 麦飯と味噌に葱をつけて食べるだけです。繁田一族の者だからといって特別扱いされることはありませんでした。職工さんとまったく同じです。寝る場所も同様です。それが祖父や祖母の方針でした。
戦争が終わってからも私はお茶をつくり続けました。終戦の翌年は丸一年農作業をして暮らしたのですが、5月のお茶づくりの時期がくるとそちらにかかりっきりになり、つくったお茶は買いにくる人がいれば売りました。
二千坪の畑を一人で耕す
本当は、戦争が終われば私はすぐにでも商売を始めたかったのですが、なにしろ当時は食料が何もなく、自給自足を余儀なくされました。しかも私の家にはその働き手が私しかいません。雇い人たちは兵隊に行って帰らず、兄たちはもう年がいっています。畑仕事をこなせるのは私一人だけだったのです。そのため私は屋敷を除く二千坪の敷地をすべて畑に変えて、くる日もくる日も農作業に励みました。麦もつくればさつまいももつくる。つくれる野菜や穀物はみなつくったといったほうがいいでしょう。おかげで戦後の食料難の時代にも私の家族はさして困らずにすみました。
ところで話は少しそれますが、私はよくこんなことを人に聞かれます。
「お茶をつくっていない時は何をしているのですか」と。
お茶をつくるというと、一般の人は一年中それにたずさわっているように思われがちですが、実はお茶づくりの時期というのは大変短いのです。5月の八十八夜の数日前頃からからお茶摘みにとりかかり、10日から15日間でつくり終えます。5月20日頃がお茶づくりのピークです。それが終わり40日くらいたった頃に、今度は二番茶づくりが始まります。だいたい四番茶づくりまで行われます。その期間を全部足しても、製造日数は2か月余りです。それ以外の期間はお茶を販売するか、農家であれば他の農作物をつくって生活します。
また、こんなこともよく聞かれます。
「お茶づくりの楽しさとはどんなところですか」と。
答えは簡単です。いいお茶をつくること、これに尽きます。たとえば同じ葉であっても 自分の技術によって他よりもいいお茶ができる、それが何よりお茶づくりの楽しい点です。これは後になっての話ですが、東京都茶商工業協同組合の青年団にいる時に、お茶のもみ方の競技会を開いたことがあります。同じ葉を使ってもみ方を競うのですが、人によって出来具合が大きく違います。なぜそうなるのかというと、つくり手に上手下手があるからです。つまり腕の差があるのです。ですからいいお茶ができるということはつくり手の腕がいいという証明になり、それはお茶をつくる者にとっては無上の喜びなのです。
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