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元SEが≪漆器の作り手≫になる(4)

プロローグ

平成元年に社会人となった私は、その約1年半後の平成2年11月に同期入社のN氏と一緒に会社を辞めます。
N氏もまた私と同じようにゲームが好きな人でした。
そして、彼は
だったら会社を立ち上げない?
と言ってきました。

バブルという時代の波に押されて「航海」と「後悔」の旅が今始まる。
(う、苦しい…)

短い期間ではあるのですが、「ゲーム業界」に身を置いていた時期がありました。
不安定で辛いことが多々ありましたが、振り返ってみると、様々なことがあって「逆に充実した時期だったのかも?」とさえ、今となら思えます。

今回は、これまでとちょっと毛色の違った異質の特別編です。

起業する!?

同時に会社を辞めたN氏と私。
その後、当時私が住んでいたアパートを仮事務所の拠点として、N氏との共同生活が始まりました。
私の知らない他の同志も数人いたようで、N氏は時折メンバーをアパートに連れてきたりしてました。
最初の頃は「有限会社設立?」に向けてみんな鼻息が荒かったような記憶があります。

でも、まずは、安定した収入を得るための仕事を得ないと始まりません。
私はそういう営業活動一切できなくて、N氏に頼り切りでした。
(役立たずだなぁ…)
N氏は、ゲーム会社の担当者とコネがあり、ゲーム雑誌(ファミ通)編集者と連絡を取り合ったりと奔走していました。

その頃は、ゲーム雑誌のライターとかやってましたかね…。
ゲームの攻略記事を書いたり、攻略マップの資料をまとめたり…は、私もしてました。そしてそれを元に出版社に持ち寄って交渉したり、とか。

第1話で触れた「BASICマガジン」発行元の電波新聞社で、読者が投稿してきたゲームプログラムの動作検証や、掲載するゲームの選別及びそのレビューを書いたりなんてこともやりましたっけ。

でも、これらの活動は私の「やりたかった」ゲーム開発にはまだまだ程遠いことでした。

それに色々やった気がしますが、どれも定期的な仕事獲得には結びつきませんでした。

勤めていた会社を辞めてしまうと、当然のことながら収入がなくなります。
私が新卒で1年間貯めていたお金も生活費などですぐに消えていきました。

貯金も底をつき、いつしかカードローンで借金もするようになって二進も三進も(にっちもさっちも)行かなくなり、「このままではもうダメだ」と思った私は、考えに考え、悩みに悩んだ末、N氏と距離をおくことにしました。
そしてN氏は母親とともに所持品を片づけてアパートを出ていきました。
(あれ?なんかこう書くとアパートを追い出したみたいですごい罪悪感あるな…)
私が抜けた後、N氏や他のメンバーも夢半ばにしてあえなく解散となったようです。

結論
技術者だけがいくら集まっても会社は起こせない」

N氏と別れたことで完全にゲーム業界とのパイプはなくなってしまった私。
残されたローンの返済に追われ、とうとう尻に火がついてしまい、結局再就職することを決意します。

そして、私は求人情報雑誌でとあるゲーム会社を見つけ、そこに応募しました。

とあるゲーム会社の話

そのゲーム会社は当時住んでいたアパートから近いこともあり通勤が楽で良いと思いました。無名の会社でしたが、それでもゲーム開発に携われるなら…と期待して入社しました。

(尚、これからこの会社について触れていきますが、すべてのゲーム会社がこういう処遇だとは限らないと思うので、参考までに。)

会社に入ってまず目を引いたのは、入り口に積まれた布団や毛布でした。
納期が近くなると家に帰れず会社で寝泊まりするようになることを暗示しています(笑)。
社員は小人数で17~20名ほど。企画を担当する人やグラフィックデザイナー、サウンドクリエーター、プログラマーで構成されていて、他に専務と社長がいました。
入社してみて分かったのですが、自社開発というよりは他社の案件を受注して開発するのをメインとしていた会社でした。

時は、スーパーファミコン全盛期

家庭用ゲーム機「スーパーファミコン(以下、スーファミ)」のソフトが出回っていた頃で、私は、とあるシリーズもののコンテンツ作品でRPG(ロールプレイングゲーム)の開発チームに参画します。
※あえて作品名は出しません。察してください(笑)。

私はそのゲームの中のオープニングとエンディング、そしてちょっとしたツールの作成を担当しました。
尚、このゲームのメインプログラムはさらに別の会社へと外注に出していました。

私は入社してすぐスーファミの仕様書を渡されて、それを理解するところから始まりました。
スーファミの機能「拡大縮小」「モザイク処理」などを実装するためにどのようにプログラミングすれば良いのかをまず習得します。

ときには他社のゲームをプレイして参考にすることもありました。
勤務時間内に堂々とゲームをするなんて、普通の会社ではあまり見られない光景です(笑)。

普通にゲームをプレイしていると気がつかないと思うのですが、
プログラマー目線で見ると、
「この処理はどうやってプログラムしてるんだ!?」
という驚きや刺激があったりします。


スーファミって、背景(BG:BackGround)3枚とキャラクター(スプライト/オブジェクト)の重ね合わせで画面に表示しているのですが、モザイク処理がかけられるのは背景のみなんですね。
このころ既に市場に出ていたゲームソフト、ファイナルファンタジー4(FF4)では戦闘から逃げるときモンスターの画像にモザイクがかかるのですが、これを見て、「え?これキャラクターじゃなくて背景だったのか!?」と当時とても感心したものです。(伝われ)

※漆器の作品展・展示会などでも
「ここはどうやって塗ったんだろう?」
「この部分は大変だったんじゃないの?」
と感心することが「稀に」ありますが、それも作り手目線あっての感覚でしょうか。
(無理やり漆器の話題をぶち込んでみるw)

ゲーム開発あるある?

ゲームを作っていて印象に残った出来事をいくつか紹介します。

容量が足りなくなる問題

スーファミは、大容量のCD-ROMディスクではなくカセットだったので、データが増えてくると容量に収まらないという問題がありました。
8MB(メガバイト)とか1GB(ギガバイト)とかいう容量のサイズを聞いたことがあると思います。
ゲームのカセットに記述されているこの容量は「8MB」と書いてあった場合、実は「8メガバイト(Byte)」ではなく、「8メガビット(Bit)」なんです。
1バイト(Byte)=8ビット(Bit)、です。

メインプログラムを作っていた外注さんが、
「8Mバイト」だと勘違いしてプログラムを作ってきてしまい、カセットの容量に収まらなくなって完成間近になってデータを削らなくてはいけない(8分の1にしなくてはならない)事態に陥りました。
どこを削るかで、徹夜で会議が行われました。このときは布団で寝ることすら許されませんでした。
マップデータを圧縮して持ち、読み込み時に展開するロジックを新たに追加。音楽データは圧縮効率が悪いのでそのまま。あとはイベントをごっそり削るとか…したのかな?もう覚えてませんけど。

ファミコン初期のドラクエIは、カセット容量が
512KB(キロビット)=64KB(キロバイト)
らしいですね。もう、凄いとしか言いようがない…

バトル仕様が途中で変更

これは作った外注さんが悪いというより、しっかり仕様を伝えなかった(途中で仕様変更した)せいではあるのですが…。

RPGのバトルシーンは、味方パーティ対敵パーティのコマンド入力方式でした。
味方キャラクターが敵の場所まで「移動して」攻撃アクションをするタイプです。

例えば、
敵パーティが2体(A、B)で、味方パーティが4体だったとしましょう。
コマンド入力では、敵Aを味方全員で集中攻撃するように入力したとします。

すみませんね、こんな絵で


味方の1人目と2人目の攻撃で敵Aが倒れた場合、3人目と4人目の攻撃は相手がいなくなったため空振りになります。そして生き残った敵Bから反撃される。
ファミコン初期のドラクエ2やFF2なんかはこういう仕様でした。

でも、上記のケースでは、「敵Aがいなくなったら、自動的に敵Bにターゲット変更する」のがプレイヤーに対して親切です。後発のゲームでは大抵こうなっていると思います。
これ、テキスト文字だけだったらそんなに苦労しないのですが、攻撃アクションがあるゲームだと、敵のところに移動する軌跡を再計算しなくてはなりません。
外注さんは、コマンド入力時に軌道計算していたため、その部分は作り直しになりました。最初からそういう仕様だと伝えていれば、攻撃開始時に軌道計算するようにプログラムしていたことでしょう。
(バトル中、演算の処理速度とか大丈夫だったのかな?)

エピローグ

ちなみに、このゲーム会社は「月15時間までは残業代は出ない」とか、そもそも給与が安いとか、売れなさそうなつまらない案件のプログラムばかり作らされるとか、色々とブラック要素満載で9ヶ月で辞めました。
携わった上記のゲームが日の目を見る前のことでした。

「自分がやりたかったことって、こういうことじゃなかったはず…」
とか思いながら。
(つづく)

会社辞めてばかりで長続きしない人だな、と思いましたか?
はい、正解です!
当時、友人たちにも「転職のプロ」とか揶揄されてましたっけ(笑)。

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