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劇場と観客

「有名になるのが寂しい」「映画の主題歌なんてやめて」「そんなの○○の作品じゃない!」「結局金か」なんて言葉をよく聞く。自分の好きが大衆化していくことへの寂しさから?作品の方向性が数字を追うようになるからだろうか。自分たち観客はどこまでクリエイターに求められるのだろう。

同じレベルの作品を作れない者が作品にとやかく言う権利は無いだろうに、なんて思う。同時に、よく知らない誰かの作品には後ろ指を指すのに、自分の「推し」やそれに近い存在を賞賛する人の気が知れない。自分で選んで飛び込んだ劇場で見た作品。その時点で私たちはその劇場の観客だ。

例えば、表現者になったからと言って何者かになれる訳では無いだろう。どの道で大成しようと人間である限り生活の営みが大きく変わることはなくて、ご飯を食べて仕事をして眠るなんて言う基盤は死ぬその日まで続く。
じゃあ劇場を提供するクリエイターと観客である自分たちにどのようか違いがあるのか、それは愛して捧げた時間だと思う。彼らは皆がぼんやり歩いた散歩道で沢山のことに頭を回しただろう、私たちが惰眠を貪った時間できっと勉強して、作品に頭を悩ませただろう。要するに努力して上り詰めたのだ。このnoteも含め、この世は人目に触れない作品で溢れかえっている。作品で光を浴びるには才能なんて言葉ひとつでは片付けられないほどの努力が必要で、それをしていない我々にとって、クリエイターは当たり前に遠い存在になっていく。

ぼんやり上澄みを拾う人々の方が多いのは当たり前だと思う。けれど「神曲」「天才」なんて言葉を作品やクリエイターへの賞賛として呟く人たちを見てそんなことを考えていた。

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