飼っていた鳥が死んだ。まだ3歳、脳の病気だった。 彼女に何をしてやれただろうか。私は思い出せない。心のどこかで面倒に思っていた。のかもしれない、と思う。 彼女は無垢で、私を愛してくれた。寝ぼけたぐちゃぐちゃな私も、泣いている私も、いつだって肩乗って、共に戦ってくれたように思う。私は何もしてやれなかった、せめても返せなかった。体調が悪いことに気付いてやれなかったし、彼女の苦しみを何も背負ってあげられなかった。彼女の気配が消えた部屋は、どこか冷たくて寂しい。彼女に似た青色の花ばか
目が覚めると隣に彼女がいる。私は荷造りを怠ったらしい、これから出かけると言うのに。急いで荷物を詰めて、彼女の手を握りしめて車に乗り込んだ。運転手の顔は見えない。 私の肩ですやすやと眠る彼女からは紅茶に合いそうな甘い匂いがする。窓から差し込む陽に照らされる彼女はまるで絵画の中のようで、思わずシャッターを切る。頬を撫でて、そのやわらかさにドキリとする。脆くて、儚くて、今にも潰れてしまいそうで。触るのを辞めた。 窓の外には海が広がっている。岩の隙間から顔を出した夕暮れがあまりに美し
また1つ歳をとった。どうやら次は大人になるらしい。 朝はお紅茶を舌で転がし、商店街で花を買う。映画を観て、夕暮れを歩き、ベンチで本を読む。暖かい部屋で音楽と踊る。それで在りたかった。全部願望で、ただ毎日目が覚めて外部の力に頼り起き上がって、バイトをして精一杯。衝動も熱も冷めてしまったのかな、分からないけれど。ひとりじゃ眠ることすらままならない。頓服を飲んで、祈るように眠りについて、すぐに目覚めて。その繰り返し、脳はいつだってショートしている。私は何になるのだろう、大人になれる
私たちは所詮人間である。脳の仕組みが原始から変わらないとかそういう話をしたいのではない。パソコン、スマートフォン、そこを開けば宇宙のような、果てのない言葉達が拡がっている。生涯かけても全てに目を通すことは出来ない程の思想や情報の海。掌に四次元ポケットを持ち歩いているのと大差ないだろう。故に、私たちは漠然と人間以上になったと錯覚している気がする。私はそうであった。狩りをしていた時代じゃないんだから、とご飯を食べ、眠り、働く。その営みをバカにしていたように思う。 人間は所詮人間な
日没後、バスの止まるボタンの赤が夕日の差し込む部屋のようで綺麗だった
日々色々な「エモい」を目にする。YouTubeのコメント欄、Twitterのリプライ、Instagram、日々の会話 etc この言葉にとにかく美学を感じない。自身で定義することを放棄した者がエモいが分かるということを理由に自らを正当化する言葉でしかないじゃないか! 多段式ロケットがセパレートを行い未知を目指すように、誰かが自らの命を分けて創造したものを剥いで、削ったその先に洗練された作品がある。それを色々な媒体を駆使して私たちは己のエゴのために日々消費している。それなの
今年に入って初めてnoteを書いている。生活と芸術を煮詰めた日々は続いている。自分にないものばかり目を向けて、ひたすら考える。心臓の奥が燃えているような気がする。 夏が終わってしまった。9月1日になった途端に我が家の青色のインコは換羽をはじめ、その日が私の夏終いとなった。あくびをして、日々に回帰する。 夏は特別である。太陽は輝き、また太陽のような花が咲く。額に滴る汗を感じながら散歩をする瞬間は生を実感するし、海も風が運ぶ風鈴もキラキラと音を立てて私の前を通り過ぎていく。限ら
最近投稿が少なかったのはポケモンのせいです。 私たちはいつからか勘違いをしている。あなたは〇〇が好きで〇〇は苦手だよね、そんな会話をする度、聞く度大きな違和感を覚える。 目の前の人が家族であっても赤の他人であっても、感じた全てを言うことはないだろう。本当に美しい芸術は口にすることができないから作品として形を保っているわけで、自分が言葉にできると思っているのならそれば大きな勘違いだ、と思う。ましてや何が好きか人に言うなんて本当にそのものが好きな人がすることか?とわたしは思って
興味が持てないことは恥ずかしいことでもなんでもない、とつくづく思う。たくさんのものを深く愛すなんてことは出来なくて、狭いところいっぱいの愛情を注がことはとても価値があることで。だから一夫多妻制は広く認められないのでは?なんて考えていた。 自分はどうしても、何でもかんでも好き!と言える人の気が知れない。現に私は自分よりそのコンテンツに時間やお金をかけてきた人がいる前で好きなんて絶対に言えない。同じ「好き」繋がりの人と話をしていたら実は上澄を拾っただけの人だった、なんて時はかな
「有名になるのが寂しい」「映画の主題歌なんてやめて」「そんなの○○の作品じゃない!」「結局金か」なんて言葉をよく聞く。自分の好きが大衆化していくことへの寂しさから?作品の方向性が数字を追うようになるからだろうか。自分たち観客はどこまでクリエイターに求められるのだろう。 同じレベルの作品を作れない者が作品にとやかく言う権利は無いだろうに、なんて思う。同時に、よく知らない誰かの作品には後ろ指を指すのに、自分の「推し」やそれに近い存在を賞賛する人の気が知れない。自分で選んで飛び込
考える。 作品の価値はどこにあるのか、誰が決めるのか、自分如きに他人の作品を批評する権利があるのか、話せばキリがない。 何かを好きというのにも自信がない。泣いて喚いて傷付けて、でもどこかで自分を諦めきれない子供だ!気持ちだけご立派で口だけ達者で、でも動けない自分が大嫌い。憂さ晴らしにする自傷行為も自ら嘆いて当てる先もないと思うとなんだか悔しい。どこかで他人を馬鹿にしてる自分も気持ち悪い。自分が好きを伝えるなんて烏滸がましい、そんなことを考えている。これも、言い出せばキリがない